昔、古代人はみんな太陽を拝んだ。この信仰は人類どこにでもある信仰です。
今だって太陽を拝む人はいます。
「なぜ太陽を拝むのですか?」
太陽は聖なるものだった。昔の人にとっては聖なるものだった。
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昔の人は人間が自然を支配しているなんて、夢にも思っていなかった。
例えばインドでは自分たちの世界で一番偉いのはゾウだ、その次はライオンだ、その次は人間かも知れない。
という風に考えていました。何が人間てものがそんなに偉いものか、そんな事は夢にも考えていなかった。
今は人間が一番偉いと考えてます。
これは本当かね?
歴史というものもそうなのです。なぜかというと歴史というものはみんな現代の色眼鏡を通すからだ。
通さなくたってチラチラするものはあるんですよ。通さないで歴史を見る事は大変難しいけどね。
チラチラ見えるものはあるんです。せめてチラチラ歴史は見なければいけないんだ。
太陽には神聖な力があるんです。
だけど現代人はそうじゃないんです。
「そりゃ〜みんな心の気の迷いだよ、太陽はかくかくの物質で、ああいう核分裂を行って熱を出してる一つの物体なんだよ」
「あれにはな〜んにも神聖な力なんかも何もありはしないんだ、あれを神聖だと思うのは気の迷いでおまえの感情なんだ」
その感情を現代の言葉で言いますと
「投影」
と言いますね。心理的投影といいますね。
おまえのその中に持っている感情を、昔の人はあの太陽に投影したんだと言うんです。
「驚くのも感心するのも尊敬するのもみんな、おまえの心だ」
「驚くべきものなんてありはしない、関心するものなんてのもありはしないんだ」
「そういうものはみんなおまえの中にある心を、太陽に向かってプロジェクトしたんだ、投影したんだ。昔の人はみんなそうだった」
「あの森には悪魔が住んでいる」
昔の人は信じていたんです。しかし今の心理学から言うとそうじゃない。
「悪魔はおまえの心の中にあるんだ、その悪魔をおまえは森に投影したんだ」
本当かね?
それでは例えば、今日絵描きが詩人が太陽を見て美しいと思う、詩人じゃなくても君が日の出を美しいと思う。
美しいと思うのは君の主観か?はたして
太陽が美しいんじゃないんですか?
太陽というものは実際美しいものが向うにあるんですよ。それを君は感じるんじゃないんですか?
君は単に、君の美しいと思う君の主観を投影しているんですか?それに過ぎないのですか?
君の想像力に過ぎないのですか?美しいという事は。
君はもう答えられないじゃないか、でも科学はそう言うんです。
君の想像力に過ぎないんです。美しいなんてものはもちろん君の主観に過ぎないんです。太陽は美しいなんてのは君の心だ、君の迷いだ。
科学はそういいます。
それでは芸術というものはみんな迷いの上に立ってるんですか?どうしてあんな利口な人達が何十年も迷いぬいたんですか?
きっと太陽はあれは美しいんですよ。
美しさを発明しているのではなく想像しているのでもない。太陽は東から昇るちゃんとした実態なんです。
それであれは美しいんです。あの美しさは太陽から来ているに違いないと古代人は考えた。だから礼拝したんです太陽を。
答えはどちらにありますかね。これは今日においても非常に難問題ではないですか?
科学は現代の常識というものです。現代の思想というものです。
だが現代の思想なんてものはなんの根底もないんです。少しものを考える人には根底はありません。歴史的根底があるだけです。
学問的根底はないです。心理的根底はあります。それをイデオロギーというんです。
唯物史観を信じるならそこまで信じたまえ。
だからなんでもないです。イデオロギーなんて何でもない。
もっと根底ある思想を信じようじゃないか
もっと根底ある思想というものは今みたいに
もう少し考える事
です。
それがきっかけです。
※上記は小林秀雄講演「現代思想について」より抜粋
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