幕末明治

日本で最初の「給食」は世界遺産・富岡製糸場だった

画像 : 再現された昭和時代の学校給食 wiki c Project Kei

給食とは、特定多数人のために専門の施設を用いて組織的、継続的に提供される食事のことである。

「給食」といえば、学校給食のことを指す場合が多く、日本人であればほぼ全員が食べてきたはずである。

主に小・中学校で提供されている給食であるが、いつどこから始まったのであろうか?

学校給食の始まり

学校で初めて給食が提供されたのは明治22年(1889年)である。

山形県鶴岡町(現・鶴岡市)の私立忠愛小学校で初めて提供され、弁当を持ってこれない子どもたちのために無料で提供されたのがルーツとされている。

メニューは「おにぎり、焼き魚、漬物」など質素なものであったという。

昭和初期になると給食を取り入れる学校が増加していったが、戦争が始まると一旦停止。

戦後になると、アメリカを中心とした外国からの食料支援によって給食が再開。

しかしアメリカから過剰な小麦や余った乳製品を押しつけられ、脱脂粉乳やパン食など日本人の食文化が大きく変化する要因となった。

給食の始まりは富岡製糸場

それでは学校ではなく、給食というシステム自体はいつどこで始まったのだろうか?

それは現在世界遺産となっている、群馬県富岡市の富岡製糸場である。

画像 : 富岡製糸場の繰糸場 wiki c

明治5年(1872年)に設立された日本初の本格的な機械製糸である富岡製糸場は、常時500人以上の女工が働いていた。

それだけの数の女工にそれぞれ弁当を作らせるのは非効率であるとして、開業時から給食のシステムが導入されたのである。

しかも朝、昼、夜の3食であった。

メニューは「ご飯や味噌汁、漬物や煮物、干物」など決して豪華なものではなかったが、当時としては最新の管理システムであり給料も大変良かった。

現在の価格で言えば一等工女で月50万円ほどだったという。

労働時間は1日約8時間、週休1日、夏と冬に10日間の休暇、寮費は製糸場負担で3度の給食付きだったのである。つまり給料がまるまる収入となった。

そのため富岡製糸場は明治の女性にとってあこがれの職場で旧士族の娘が多く、女工たちは「富岡乙女」と呼ばれていたのである。

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 『大正三美人』九条武子 ~女子教育家・歌人として慈善事業に捧げた…
  2. コレステロールをやっつける!フィトステロールの底力 「見逃されて…
  3. 江戸時代の肉食文化 について調べてみた【肉は薬?!】
  4. 「焼酎の歴史」について調べてみた
  5. 江戸時代の蕎麦(そば)はどのようなものだったのか?
  6. 総理大臣に2度もなり損ねた公家 ~三条実美
  7. 陸奥宗光 ~「カミソリ」の異名を取った外務大臣
  8. 「剣豪」から「名指揮官」に変貌した土方歳三 【日本最大の内戦~戊…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

夏目広次だけじゃない!三方ヶ原で家康の影武者となった鈴木久三郎の武勇伝【どうする家康 外伝】

元亀3年(1572年)12月22日、武田信玄(演:阿部寛)率いる三万騎の精兵を前に惨敗を喫した徳川家…

台湾料理店がなぜ急増しているのか調べてみた

最近、台湾料理店が多い。私の住まいは静かな田舎町だが、それでも2軒は知っている。とりわけ自宅…

【ナチス・ドイツ狂気の全貌】ホロコーストについて調べてみた

ホロコーストとは=ナチスドイツがユダヤ人達に組織的に行った大量惨殺の事である。ナチス…

ゲイたちに愛されたジュディ・ガーランドの娘 「ライザ・ミネリの現在」

天賦の才を受け継ぐ愛娘ライザ・ミネリ(Liza May Minnelli)は、米国のミュ…

曹仁の実像 「過小評価された曹操一族最強の名将」

魏の名将は徐庶の噛ませ犬?ゲームのシステムを理解するまで苦労する『三國志』シリーズだが、どのシナ…

アーカイブ

PAGE TOP