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Sarah Bernhardt(サラ・ベルナール)
サラ・ベルナール (1844~1924)という女優をご存じだろうか。
彼女は、当時新しい(ヌーヴォー)と言われていた芸術運動「アール・ヌーヴォー」の動きの中心にいた女性であり、多くの詩人や劇作家、画家やデザイナーにいたるまで多くのインスピレーションを与えた人物である。
女優としてはもちろんのこと、敏腕プロデューサーとしても才能を発揮し、多くの芸術作品を世に送り出した。
この記事では、そんなサラ・ベルナールについて調べてみたいと思う。
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※アール・ヌーヴォーの家具
※アール・ヌーヴォーとは…1800年代後半から1900年代前半に発展した芸術運動、あるいは改革のこと。花や植物などの有機的なモチーフや、自由曲線の組み合わせによる華やかな装飾が特徴的。鉄やガラスなど、当時としては新素材のものを使っている。代表的な芸術家にはアルフォンス・ミュシャ、グスタフ・クリムトなどがいる。
棺の中で眠る女優
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※(死者を入れる棺の中で眠っているサラ・ベルナール)
1844年、パリにて望まれない子どもとして生まれたサラは、母親によって生後まもなく修道院へと里子に出され、15歳までは修道女として生活をしていた。
そんなある日、コメディフランセーズという王立劇場へお芝居を観に行ったサラは、舞台の素晴らしさに魅せられてしまう。
そこからサラは国立演劇院へ入学し、その才能を開花させたのである。
彼女はセルフ・プロデュースに優れた女優だった。
当時はまだ一般的でなかったブロマイドを大量に生産し、女優という職業が卑しいものであるという偏見があったこの時代に、優雅で美しいその姿を写真におさめ、それを売ることによって、イメージ戦略を打ち立てていったのである。
サラにはもう一つ、伝説とも言われる驚くべき習慣があった。
それは、16歳の時から続けているもので、なんと死者を寝かせる棺の中に入って眠っていたというものである。
棺の中には純白のシーツを敷き、中には金貨を敷き詰めていたという。
どこへ引っ越すにも必ずその棺を持ち運ばせたそうだ。
彼女の本意は不明だが、“棺の中で眠る女優”というイメージは、当時のみならず、現代においても強烈なインパクトをもたらすことだろう。
サラ・ベルナールとミュシャ
サラは、優れた美術家を輩出するプロデュース業にも長けており、彼女のおかげで一躍有名になったのが、アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)である。
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※Alphonse Mucha(アルフォンス・ミュシャ)
チェコ出身のミュシャはアール・ヌーヴォーを代表する画家のひとりであるが、若い頃は印刷工場で働くイラストレーターだった。
いつもサラの公演のポスターを担当している画家が休暇に出ており、サラはまだキャリアの少ないミュシャにポスターの製作を頼んだのだという。
それが舞台『ジズモンダ』。このポスターは、ミュシャの出世作となり、彼は名声を手に入れるのである。
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※(ミュシャの出世作となった「ジスモンダ」のポスター)
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※(ミュシャ作「椿姫」のポスター)
ミュシャにとってサラは“永遠のミューズ”であり、この後も、サラ主演の舞台『椿姫』や『メディア』など、多くの公演のポスターを製作している。
このように、サラは多くの若いアーティストを発掘することにも力を入れていたようだ。
ミュシャと同い年で、舞台美術家として活動していたルネ・ラリック(1860~1945)は、彼女のプライベートのアクセサリー製作を始めたことで注目され、ジュエリーアーティストとして活躍することになるのである。
『劇場の女帝』として君臨
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(作家ヴィクトル・ユゴーからは“黄金の声”と称された)
サラの女優としての地位を不動のものにしたのが、大文豪ヴィクトル・ユゴー(1802~1885)が書いた『リュイ・ブラース』という舞台で主演を務めたという出来事である。
ユゴーはサラの声を、“黄金の声”と絶賛。
さらに詩人で劇作家のジャン・コクトー(1802~1885)には“聖なる怪物”と称され、崇拝された。
また、劇作家オスカー・ワイルド(1854~1900)とも深い親交があり、ワイルドの代表作『サロメ』はサラがワイルドに発注した作品であった。
そしてサラは、当時としては珍しく、『ハムレット』などの男性役も得意としていたのである。
海外にもサラの名声は轟き、彼女は名実ともに“劇場の女帝”として、芸術界に君臨したのであった。
まとめ
世紀末のパリを代表する大女優として、後世へと語り継がれているサラ・ベルナール。
2018年から2020年にかけて、全国の美術館で『サラ・ベルナールの世界展』が開催されている。
https://www.sunm.co.jp/sarah/
(サラ・ベルナール展の公式ページ)
この展覧会では、彼女が実際に舞台で身につけていた衣裳、彼女のポートレートの数々などを見ることができる。
女優とは、豊かな肉付きと大柄な身体が魅力的であると言われていた当時、華奢で小柄、赤毛の縮れ毛に青白い肌をしたサラは、いわゆる正統派な美人ではなかったと言える。
しかしながら、“黄金の声”とまで呼ばれたその美声や、生命力にあふれた瞳は、多くの人々の心をとらえてやまなかった。
晩年は結核により肺を壊し、また悪性腫瘍ができて足を切断することになってしまったが、そんな状態になってもなお、サラは舞台に立ち続けたと言う。
彼女の墓はフランス・パリに作られ、今でも多くの人が、彼女の象徴である白い百合の花を持ってその地を訪れている。
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