明治38年、大阪。夜が明け始めた頃、一人の男が警察署に自首しました。
男の名は中川萬次郎。
貸座席「山梅楼」の主人でした。
わずか30分の間に、妻の家族や芸妓6人を次から次へとメッタ刺しにした、世に言う「堀江六人斬り」の犯人です。
彼はなぜ、このような異常すぎる凶行に走ったのでしょうか?
凶行・刀剣で6人を斬りつけ5人が即死
明治38年6月21日、午前4時30分。
皆が深い眠りにつき家中がしんと静まり返る中、中川萬次郎(52歳)はタンスの中から1尺8寸(約54センチ)の脇差しを取り出します。
刀を握りしめ迷うことなく奥の間へとむかい、まずは寝ていた妻の母・こま(65歳)の頭部に一刀、逃げようとする後頭部に再び一刀を浴びせて斬殺しました。
その後、隣で寝ていたこまの娘・すみ(14歳)の頭部から胸部を袈裟懸けにして絶命させると、すぐさま二階へと駆け上がります。
二階の表座敷には、こまの次男・安次郎(20歳)と芸妓・妻吉(18歳)が眠っていました。
まず安次郎の首を切断。悲鳴を上げた妻吉の左腕を斬り落とし、さらに右腕に深く斬り込み、皮一枚を残すだけの重傷を負わせました。
次いで向かいの三畳間で、「兄はん、堪忍して」と命乞いをする芸妓・梅吉(20歳)の頭部をためらうことなく斬って絶命させます。
血に染まった刀を手に、再び一階へ降り、萬次郎の娘・初光と一緒に寝ていた妻のいとこ・中尾きぬ(16歳)を揺り起こし、こまの部屋へ連れ込んで後頭部に二太刀。即死でした。
再び二階にとって返した萬次郎は、まだ息のあった血だらけの妻吉を引き起こすと、「おのれの悪口を言ったのはこの口か」と絶叫し、妻吉の口に刀を突っ込み左右1寸(約3センチ)ずつ切り裂きました。
惨劇が終わると、萬次郎は新しい浴衣と袴を身につけ自ら命を絶とうとしますが、手が震えてのどをつけません。
結局、下女に後を託して大坂西署へ自首しました。
中川萬次郎とはどんな男なのか?
・士族出身の教養高い男
中川萬次郎は尾張国海東郡福田村生まれ。旧姓は犬飼といい、実家は尾張徳川家の家来筋でした。一説によると犯行に使われた刀は、萬次郎が家老から拝受したものだと言われています。萬次郎は教養高く、囲碁将棋が得意でした。
維新後は帆船の船頭を生業とし、大阪に行くたびに山梅楼に宿泊。やがて同家の娘・八重とねんごろになり、婿養子としておさまりました。
女主人である八重の母が亡くなると、萬次郎は楼主として店の実権を握ることになります。
・自分本位な女狂い
萬次郎は、奔放に振る舞うようになっていきました。住み込みのお作という芸妓と北海道へ駆け落ちし、数年後お作を捨て、一人でしれっと山梅楼へ戻ってきました。
自分のことは棚に上げ、留守中に妻・八重が不貞をはたらいたといって殴る蹴るの暴力をふるい、家付き娘の八重を追い出し、山梅楼を乗っ取ります。
八重がいなくなると萬次郎は松島遊郭の芸妓・白木すえ(39歳)を家に入れ、すえの姪・座古谷あいを養女として引き取り、芸妓「小萬」として店に出しました。
これだけでも十分なクズっぷりですが、萬次郎は25歳年下の容姿端麗なあいに執心しはじめます。
しつこく言い寄る萬次郎をあいは拒み続けましたが、すえが不在のある日、萬次郎は力ずくであいを自分のものにしてしまいました。
明治30年頃、萬次郎はあいを連れ台湾へ出奔し、あいは長女・初光を出産。
帰国すると養子の明次郎(31歳)とすえの仲が怪しいと難癖をつけ、すえも裸同然で家から追い出します。
その後、あいを妻として迎え、あいの家族と一緒に暮らしはじめました。
萬次郎のあいへの異常な執着が、狂気へと変わる
あいは萬次郎のことを好きになれませんでした。嫌で嫌でたまらなかったのです。あいの冷たい態度に萬次郎はイラ立ち、暴力を振るうようになります。
特に嫉妬がすさまじく、あいと客の関係に目を光らせ、少しでも疑わしいことがあるとあいに刀をつきつけて脅し、殴る蹴るの暴力の果てに詫び状まで書かせました。
萬次郎の怒りと嫉妬と暴力による日々を送っていたあいは、ある日、明次郎と駆け落ちします。事件の約1か月前のことでした。
あいの裏切りを知った萬次郎は逆上するも、あいを家に連れ戻したい一心で、あいの母やおじ、妻吉の父親らにすがりますが、誰も取り合ってくれません。さらに警察署にも捜索願を提出したものの、捜索はうまくいきませんでした。
「誰もかれもがグルになって二人をかばい、自分をのけ者にしている。みんなが寄ってたかってあいへの思いをさまたげ、陰で自分をあざ笑っている。」
このような異常な憎悪を抱いた萬次郎は、二人の逃亡を手助けしたあいの家族と親族、芸妓らを皆殺しにすることを決意。
明治38年未明に殺害を決行したのでした。
「大阪府警察史第1巻」には、
「職業が職業とはいえ、彼(萬次郎)の愛欲生活は、次々と女を替えて繰り返されたが、あいに対する執着は狂気に近いものがあった」
と記されています。
両腕を失い生き残った妻吉は、尼僧・大石順教として福祉活動に励む
中川萬次郎は、「謀殺罪」(計画殺人)により、明治40年2月に死刑に処されました。
両腕を失ったものの一命をとりとめた妻吉は、芸妓を辞めて旅芸人として寄席に出演。歌や踊りを披露し、人気を博しました。
妻吉は獄中の萬次郎を訪れ「決して恨まない」と告げ、彼が死刑に処されたときには浅草連光寺で法会を営み、犠牲になった5人と萬次郎を弔っています。
その後、画家・山口草平の妻となり二人の子に恵まれましたが、夫の不倫のため離婚。
出家得度し大石順教を名乗り、身体障害者の自立を支援する福祉活動に励みました。1937年には、当時日本を訪れていたヘレンケラーと対談しています。
また口筆の書画で知られ、昭和30年に口筆般若心経で日展に入選しています。
昭和43年、80歳で亡くなりました。
現在の大阪市西区北堀江にあった堀江遊郭は、大阪大空襲を受け、戦後一時復興したものの衰退、昭和後期に消滅したということです。
参考文献:中嶋繁雄『明治犯科帳』
この記事へのコメントはありません。