大正15年(1926)6月、京都府京都市に住む平松小笛(こふえ)という女性の自宅で、小笛(47歳)と養女(17歳)、そして小笛の知人の娘達2人(5歳と3歳)が死亡しているのが発見された。
状況から小笛が子供たちを巻き込み、心中したように思われたが、小笛の遺体の法医鑑定の結果が「他殺」とされたため、当局は小笛の愛人を検挙した。
しかし、その後の複数の鑑定人による再鑑定結果が「自殺説」と「他殺説」に分かれたため、世間からも法医学の鑑定史上でも異様な事件として有名になった。
推理作家の山本禾太郎が、この事件を題材にノンフィクション小説を書いたことでも知られている。
今回は、そんな小笛事件について追及する。
遺体発見
大正15年(1926)6月30日、京都市の京都帝国大学(現・京都大)農学部からほど近い長屋の平松小笛宅にて、平松小笛(47)と彼女の養女・精華女学校4年生の千歳(17)、そして小笛と親しい大槻夫妻の娘達(5歳と3歳)の4人が死亡しているのを、姉妹を迎えに来た大槻・母が発見した。
千歳と姉妹は寝床の中で手拭いで絞殺され、小笛は鴨居から兵児帯で首を吊っており、両足は床に触れている状態であった。
遺体の下には火鉢と横倒しになった中型のまな板があり、それを両足で挟む形になっていた。
現場で発見された大槻夫婦の娘たち(5歳と3歳)は、27日に平松母娘が大槻宅を訪れて預かっていったという。
平松母娘と大槻一家は親しく、姉妹を平松家に泊めることはよくあった。29日に大槻・母が姉妹を迎えにいったが戸に錠がかかっており、母は小笛たちがどこかに遊びにいったのだと思い、その日は帰宅した。
翌30日に再び迎えにいったが、相変わらず錠がかかっているので不審に思い、巡査に頼んで戸を開け中を確認すると、4人が死亡していた。
遺体は死後3日程経っており、死臭を放っていた。
現場の状況から、小笛が子供達を巻き込み心中したように思われたが、小笛の遺体には2条の索溝(首を絞めつけられた痕)があるなど、自殺にしては不自然な部分があった。
そしてその後、当局は小笛の愛人・広川条太郎を検挙したのだった。
愛人・広川への疑惑
小笛の遺体を直接見て鑑定したのは京都帝大法医学教室教授・小南又一郎だった。
小笛の頸部には(イ)と(ロ)の2条の索溝があった。※下記画像参照
小笛が首を吊っていた上部の(イ)の部分には皮下出血がなく、下部の(ロ)の部分には明らかな皮下出血があった。
2つの溝の角度が違ったことから、教授は「何者かが(ロ)の位置で小笛を絞殺し、その後に遺体をぶら下げて自殺を偽装した」と結論づけた。
また、現場から発見された小笛の知人に宛てた遺書の内容から、当局は広川を犯人とする疑いを深めた。
小笛の遺書(現代仮名遣い文)
福田さん(※長屋を借りた時の保証人でもある知人・福田かつ)に頼む。
有る品物はお寺にあげてください。友一(※小笛の実子)には、箸もやらないでください。
広川さんが生きては添わせませんで、二人が死んでしまいます。福田さんに大島一重と木綿縮緬とを三枚あげます。
千歳が可愛いが、丸太町(※小笛が頼っていた丸太町の心霊治療師)に、この子は私のためにはならないと、言われたので、何にも楽しみはない。そいで広川さんと、二人で死にます。
小笛、条太郎(広川印)死ぬ言うて嘘言うたらいかぬよ。千歳は貴方が殺すのですね。私は先に死にます、千歳を頼む
遺書には小笛とともに条太郎の名前が連署され、かつ『千歳は貴方が殺すのですね』の一文があったことから、当局は広川が小笛たちと心中すると見せかけ、結局、小笛達4人を殺害したとの見方をとった。
また、現場の千歳の寝床から広川の名刺も発見された。
広川は事件当日にはマスコミに知られ、神戸で記者から事件を聞かされた広川は、すぐに汽車で京都に向かった。
この時、広川は車中で自身の行動を後悔している旨の手記を書いていた。
それを書いたのは発作的な行動であったのだが、犯行を疑われる証拠の1つになった。
翌7月1日深夜0時半頃、広川は京都駅で待ち構えていた刑事によって下鴨署に連行された。
小笛の過去と広川との関係
小笛は愛媛生まれで、20代の時に岡山で平松慎一と知り合い結婚した。夫婦は朝鮮の仁川に渡り、そこで養女にしたのが千歳だった。
その後、小笛は夫と死別し、大正10年(1921)に京都の出町柳で下宿屋をはじめた。
この時の下宿人の1人が京都帝大経済学部に入ったばかりの広川条太郎で、離れ座敷を借りていたのが大槻夫婦であった。
小笛の近所からの評判は良いとはいえず、図太く感情の起伏が激しい淫奔な女性と見られていた。下宿している学生と関係を持つこともめずらしくなかったという。
広川は卒業する少し前に小笛と関係を持つようになった。
大正13年(1924)、広川は大学を卒業し神戸信託に就職し、小笛の下宿屋を出た後も関係はずるずると続いていた。ほぼ毎週土曜日に京都の小笛の家に来て泊まり、月曜日の早朝に帰るという生活をしていた。
事件前の6月26日の土曜日にも、広川が来ていたのを近所の人が見かけている。
さらに大正14年(1925)1月頃には、なんと養女の千歳とも関係を持つようになった。
それを知った小笛は「千歳と結婚するように」とせまったが、広川にその気は全くなく、かわりに小笛から要求された千歳の学費などを渡した。
小笛としては、実家が裕福な広川と千歳を結婚させ、自分達も成りあがろうという考えがあったとされる。
小笛は広川の卒業後、経営難から下宿屋をやめていた。借金もあり生活は苦しく、長屋に移るとともにうどん屋を経営したが、それもうまくいかなかった。
また、千歳は幼少から病弱で、医者からも長生きはできないと言われていた。
小笛は千歳の病気を悲観し、経済的にも行き詰まり、頼れる係累もなく、事件が起きる少し前に知人・福田かつに対して「千歳と一緒に死ぬ」というような話をしていたという。
小笛には、結婚する前になれ合った男性との間にできた実子・友一(事件当時28歳)もいた。
友一は生後まもなく小笛に捨てられたが、事件の2年前に初めて小笛と対面していた。
しかし、友一は広川との関係をめぐって小笛に意見したため、小笛と友一の仲は冷えきっていた。
広川の主張
世間では「小笛の自殺説」と「広川による他殺説」の両方が報道されていた。
取り調べで広川は犯行を否認し、広川の仕事場の上司らなども無実だと主張したが、その後の7月13日、広川は殺人罪で予審に付されることになった。
翌昭和2年(1927)4月、広川は将来を悲観した小笛から心中を持ちかけられ、拒み切れずに小笛を絞殺、さらに犯行の発覚を恐れて子供達3人を殺害し、小笛の遺体を吊るしたとして、自殺幇助と殺人罪で公判に付されることになった。
6月27日から京都地裁で開始された公判で、広川は主に次のようなことを述べた。
小笛と関係したのは大学生時代の卒業前の冬休みで、他の学生が帰郷している時、小笛が「寂しいから下の階で寝なさい」と言った。そしてこたつで寝ているうちに関係した。その後、千歳とも関係を持った。
そのことを知った小笛は「妻にしてやってくれ」と言ってきた。その際、千歳の学費を月々30円(約5万円)払ってくれというので、一時金として250円(約40万円)を渡した。神戸信託に就職が決まった際、手切金を渡したが関係は続いた。ほぼ毎週土曜日に京都の小笛宅に泊まり、月曜早朝に帰るという生活だった。
しかし、この関係をずっと続けるつもりはなかった。小笛はヒステリー性で、しかも怒るとすぐに「死ぬ」などといって騒ぎ、私が縁を切ろうとすれば脅してきた。私に結婚話があるものなら「社に怒鳴り込む」などといって脅すため困っていた。他にも「京都に来てくれなければ死ぬ」「心中してくれ」などと言ってきた。私は「短気を起こしてはいけない」と慰めた。
6月27日、夕飯は7時頃済ませ、9時頃に寝た。翌28日、午前5時半頃に小笛宅を出た。
発見された遺書に使用された紙や鉛筆は私のもので、遺書の筆跡は小笛だが、私は全く知らない。
印鑑も私の物だが、押したことはない。小笛が盗み出したのだと思う。
小南教授の鑑定では、4人の死亡時間は食後7~8時間で、犯行があったのは28日午前3時頃とされた。
つまり、広川はその時に現場にいたことになる。
そして何よりも小南教授の出した他殺説が、広川が犯人として逮捕起訴される根拠となった。
鑑定論争と判決
この公判で主任弁護人・高山義三は、小笛を自殺とする京都帝大医学部講師・草刈春逸の意見書を提出するとともに、再鑑定を申請した。
これを受けて裁判長は、東京帝国大学教授・三田定則、大阪医科大学教授・中田篤郎、九州帝国大学教授・高山正雄の3人に再鑑定を命じた。
その鑑定書では、中田教授と高山教授がだいたい小南教授と同じ見解で他殺説、三田教授は自殺説であった。
三田教授は、最初の索溝は小笛が縊死を図った際の痕で、その後、体がけいれんし兵児帯が上にずれ、後の索溝を作ったと主張した。
三田教授は「他殺説を論ずる人達は、首を吊ってしばらくすると激しい痙攣が起きることや、ひもなどの圧迫が去ると皮下出血が起きるといった、法医学上留意すべき点を忘れている」と批判した。
こうして、自殺か他殺かをめぐって法医学上の鑑定論争になったのである。
11月5日、九州帝大で開かれた日本法医学会大会で『小笛殺し』が論戦の中心になった。小南門下の研究者が『索条と索溝に関する観察』のテーマで講演を行い、三田教授の自殺説に反論した。会場には自殺説の草刈講師が参加していたが、裁判進行中を考慮して反論には立たず大会は終了した。
11月19日、検察側は広川に死刑を求刑し、弁護側は無罪を主張した。
12月12日、裁判長は被告に有利なところと不利なところが相半ばして判断ができないことから、犯罪の証明が不十分として無罪の判決を下した。検察側は控訴し、翌昭和3年(1928)5月、大阪控訴院で控訴審の公判が開始された。
6月11日、第2回公判で検事が新たに鑑定を申請した。裁判長は東北帝国大学教授・石川哲郎と長崎医科大学教授・浅田一に鑑定を命じた。
両教授の鑑定書はともに『小笛の死因は自殺』と結論するものであった。
11月30日、この日の公判では両教授が自殺と鑑定したため、検事控訴の裁判であったにもかかわらず、検事が進んで無罪論を展開するという前代未聞の事態となった。
そして12月5日、広川に正式な無罪判決が下った。
事件は「小笛が子供達を殺害し、自らも命を絶ち、広川の犯行に見せかけたと冤罪事件」とされたのだった。
他殺説を主張していた小南教授は、判決後の取材に対して「私は世間から誤解されているが、広川が犯人だと言ったことはない」と弁解した。
判決から4年後の昭和7年(1932)には推理作家・山本禾太郎が、この事件を扱ったノンフィクション小説を書き、この連載は昭和11年(1936)に『小笛事件』と題して単行本化されている。(※現在は入手不可)
参考文献
香川卓二編 「法医再鑑定例」 警察図書出版 1963年
鈴木常吉 「本当にあつた事 謎の小笛事件その他続篇」 朝日新聞社 1929年
細川涼一著 『小笛事件と山本禾太郎』京都橘女子大学女性歴史文化研究所編
「京都の女性史」 思文閣出版 2002年
三田定則 「自殺・他殺」 鉄塔書院 1933年
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