昭和29年(1954)9月26日、青函連絡船・洞爺丸(とうやまる)が、台風15号(洞爺丸台風)で荒れ狂う函館の海に沈んだ。
他の青函連絡船4隻も沈没し、その犠牲者は1400人以上にものぼり、日本海難史上最悪の惨事となった。
今回は、洞爺丸事故について解説する。
青函連絡船・洞爺丸転覆
青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、明治41年(1908)に開設され、それ以来本州と北海道の鉄道を連絡する基幹ルートとして旅客・物資の輸送を担ってきた。
青函連絡船・洞爺丸(とうやまる)は、戦災で壊滅した青函連絡船復興のため、国鉄がGHQの許可を得て建造した車載客船4隻の第1船で、『日本復興の象徴』ともいわれた。
昭和29年(1954)8月には、戦後の全国巡幸で北海道を訪れた昭和天皇のお召船になっている。
それから1ヶ月あまり後の9月後半、台風15号が発生し、26日未明には九州南端に上陸した。中心気圧968ミリバール、最大風速40メートル、時速110キロの猛スピードで四国西端、島根県を通過し日本海に出た。
そのまま関東地方も暴風圏に入り、昼頃東京では平均最大風速27メートルを記録し『戦後最高の強風』が吹いた。
各地で家屋全壊などの被害が続出し、午後5時過ぎ頃には津軽海峡に接近すると予想されていた。しかし、台風15号は予想とは違う動きをしたのだった。
26日午後7時頃、洞爺丸(沈没当時4337トン)は、函館港西防波堤外の海上で一時停泊中、瞬間風速50メートルを超える暴風に押し流されエンジン故障を起こし、午後10時半過ぎ頃に上磯町(現・北斗市)七重浜沖で転覆した。
これにより乗客・乗員計1155人が死亡または行方不明になり、救助された生存者は159人であった。
他の青函連絡船、第十一青函丸・北見丸・日高丸・十勝丸の4隻も沈没し、5隻の連絡船による犠牲者はなんと1400人以上にものぼったのである。
9月26日の洞爺丸
9月26日午前6時半、洞爺丸(とうやまる)は青森港を出港した。
船長・近藤平市(54)は、船長歴13年というベテランであり、周りの人達から「天気図」と呼ばれるほど天気を読むことに長けていた。
11時頃、洞爺丸は函館に到着し、午後2時40分に青森に向かうことになっていた。
11時半、台風接近のため函館海洋気象台から暴風警報が発表された。
午後12時40分には、函館から青森に向かっていた貨物船が津軽海峡中央から「難航中」と無線電話で他の船に呼びかけた。
この通報で青函連絡船・第十一青函丸は、海峡に入ったところで運航を中止し函館に引き返した。そして第十一青函丸の乗客(アメリカ軍関係者57人、日本人119人)と寝台車などの車両を、洞爺丸に移乗させることになったのだ。
洞爺丸のような車載客船は、他の船よりも壊れにくく安全に航行ができる能力があったため、他の連絡船が運航を中止する中でも出港予定は変わらなかった。
午後3時頃、洞爺丸ではまだ米軍荷物車の積込みをしていたが、すでに定刻を過ぎたうえにそれ以上遅れると、台風が来るまでに陸奥湾内に入れなくなるため、近藤船長はそれ以上の車両積込みを拒否した。
そして船尾の可動橋(車両を載せるために船体後部にかけられる橋)を上げようとしたが、停電のため可動橋は上がらなかった。そのため近藤船長はやむを得ず出港を見合わせる決断をしたのだった。停電はわずか2分間であったが、出港見合わせは取り消されなかった。
3時半頃の函館港内は雨まじりの突風20メートルが吹きつけ、洞爺丸は岸壁にぶつかっては離れるという気味の悪い揺れをくり返していた。
4時のラジオニュースでは「台風15号は15時現在、青森市西方約100キロ、北緯41度東経139.5度の日本海海上にあり、中心気圧は968ミリバール、依然として時速110キロの速さで北東に進行中、午後5時頃渡島半島を通って、今夜北海道を通過するものと思われます」と放送された。
その後、函館では5時頃から風が弱まり晴れ間も出て、その場にいる人達は皆、「台風の目」だと思った。
そして5時40分、近藤船長は6時30分に出港する決断をした。
その後、風が急に強くなったが、洞爺丸は6時39分に乗客乗員計1314人を乗せ、青森に向けて出港したのである。
荒れ狂う海
しかし、港口通過直前から40メートルの強い南西風を受けはじめたため、近藤船長は「このまま海峡に出るのは危険」と判断した。
そして7時頃、函館港西防波堤外の海上に錨をおろし、一時停泊するために船の位置を固定しようとした。
その後も風はおさまらず波はさらに高くなった。大きな縦揺れによって船尾車両搭載口から海水が入り、次第に車両甲板上に海水が滞留していった。甲板からボイラー室、機関室への浸水が起き、蒸気ボイラーへの石炭投入ができなくなってしまった。
甲板員は激しく流れ込む海水にさらわれそうになった。あまりに危険な状態のため船員は甲板から引き上げた。
その後も開口部からの浸水は進み、発電機は次々と運転ができなくなり、海水の排出もできなくなった。
10時頃には左エンジン、そして右エンジンも運転不能になる。両エンジンが停止した洞爺丸は走錨(錨をおろしたままの状態で押し流されること)し、主に左舷側から風を受け続けたことで、右舷側への傾斜を増していった。
座礁からの転覆
近藤船長は沈没を避けるために「七重浜への座礁」を決め、そのことを船内放送で乗客に伝えた。同時に救命胴衣着用の指示も出した。
10時26分、洞爺丸は後部船尾に衝撃を受け、座礁したことを運航指令あてに打電した。
しかし、その場所は陸岸からは1100mの地点で水深は12mあり、喫水(船体の一番下から水面までの垂直距離)5mの洞爺丸の座礁には、深すぎる場所であった。
船は座礁したにもかかわらず、船体は安定せず、海岸の方に押し流されてさらに傾き、その傾斜は約45度になった。
10時39分、SOSを打電した直後に停電し、41分の通信を最後に連絡が途絶えた。
10時43分、船体を支えていた左舷の錨鎖が断裂し、積載車両が横転した。
そして洞爺丸は、陸岸から700mの地点で右舷側に135度傾いた状態になり、船底を見せてついに転覆したのである。
生存者たちの状況
青函局(青函鉄道管理局)は、洞爺丸座礁の報告を受けた時、救難本部の設置と補助汽船(タグボート)を現場に向かわせたが、激しい波浪により活動ができなかった。
午後11時過ぎ、救難本部に七重浜駅から「洞爺丸の遭難者が浜に漂着している」と連絡が入った。
ちょうどその時、現場の近くをトラックで走っていた運転手は、髪をふり乱した半裸の女性がふらついて歩いているのを発見した。驚いた運転手はトラックを降り、波打ち際に向かったが、その間に多くの遺体につまずいたという。
運転手はとてつもない強風の中で生存者をトラックの荷台に乗せ、函館に向かい万代町の交番に届けた。
11時半頃、七重浜には消防団や鉄道職員が集まり鉄道病院の救護班も到着し、その後は遺体の処置などで忙殺されることになった。
洞爺丸のある二等運転士は、波に巻き込まれた後、気がつくと砂地に座り込んでいたという。それからなんとか民家にたどり着いたが、柱につかまり「揺れを止めてくれ!」と叫んだ。船での悪夢から覚めておらずパニック状態だったのである。
他の遭難者では、障子を突き破って桟をつかむ人、ストーブの煙突を抱え込む人もいた。
ある女性は下着を波にはぎとられ、死んだ乳児を抱きながら一点を見つめて座っていたという。
その後も七重浜には、打ち上げられる遺体の中から家族や知人を探し求める人々が集まり、泣き叫んで半狂乱となった人の姿もあった。
遺体の中には、救命胴衣をしっかりとつかんだまま亡くなっている人、お互いの体をひもで結び合い亡くなっている老夫婦などの姿があった。
一方で、遺体をめぐる奇怪なことも起きていた。ある男が女性の遺体の側で大声で泣いていた。男はその女性の夫だと主張して遺体を引き取ったが、間もなく詐欺の疑いで逮捕された。
男の目的は国鉄から遺族に渡される葬儀料であり、この手の犯罪は1件や2件ではなかったという。
関係者や生存者たちのコメント
事故の翌27日、国鉄当局は以下のように発表した。
「船体の設計上の欠陥もなく万全の措置をとっていたので、災害は不可抗力によるものと推定している」
高見青函局長は、以下のように説明している。
「近藤船長はベテランであり、気象判断の間違いがあったとは考えられない。予報では台風は午後6時頃渡島半島を通過するとしていた。その後、風が弱まったので船長は大丈夫だと思ったのだろう。中央気象台(現・気象庁)と函館海洋気象台とで食い違いがあったようで、その点も船長の判断を狂わせたのではないか」
生存者の洞爺丸二等運転士・阿部喜代治(43)は、9月28日の朝日新聞に、以下のコメントをした。
「乗組員は誰もが転覆の危険を感じなかった。結果的にみれば、15号台風を甘くみていたかもしれない」
他には、船外に脱出して生き残った船客のリアルな体験談も掲載されている。
「ボーイや乗組員の指示に従って船室内にいた人は、そのまま沈んだようだ。ボーイは客室の戸を開けようとせず、海中に飛び込んではいけないと注意していた。早めに船を離れていればもっと沢山の人が助かったと思う」
もちろん船客のパニックを避けるためであったらしいが、船長の状況判断に誤りがあったのではないかと指摘されている。
遺体捜索では、28日から潜水夫による作業が始まった。そのような中で、近藤船長の妻の手記が読売新聞に載った。
その中で夫人は
「私達母子は、どんな非難も覚悟の前です」
「任せられた多くの生命を失った夫の罪を、どうかこの母と子に免じて許してやって下さい」
と綴っている。
この手記の2日後、10月3日に近藤船長の遺体があがった。
救命具はつけておらず、愛用の双眼鏡をしっかりと握りしめていたという。
海難審判とその後
昭和30年(1955)2月15日から、洞爺丸を含む5隻の青函連絡船の海難審判が函館海難審判庁で開かれた。海難審判は、海難が起きたとき、その原因などを究明し海難防止に貢献することを目的としている。
受審人(被告)は各船の乗組員達9人とし、指定海難関係人は国鉄総裁や青函局長、気象台長達として乗組員達などの審問が行われた。
9月22日、洞爺丸についての裁決が言い渡された。
主文は
「船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、船体構造および連絡船の運航管理が適当でなかったことも一因である」
とし、指定海難関係人・十河信二(長崎国鉄総裁の後任)に対して勧告した。気象台と青函局長への勧告は見送られた。
理事官(検察官)側、国鉄側とも二審を請求し、昭和34年(1959)2月9日、東京高等海難審判庁での裁決は、十河への勧告は取り消したが国鉄の主張する不可抗力説をとらず、あくまで『人災』とした。
国鉄側はその後も裁決取り消しを求めたが、東京高等裁判所、最高裁判所は請求を却下、棄却したのだった。また船長が殉職している海難には主文に「船長の職務上の過失」の語句は使用しないということになった。
その後の改善として、船長に任されていた運航決定権は青函局指令と協議で決めるようになり、船体には車両甲板の搭載口に防水扉をつけるなどといったことがされた。
そして事故をきっかけに青函トンネルの開通計画が急速に進められ、昭和63年(1988)3月に青函連絡船は終航したのである。
参考 :
田中正吾「青函連絡船洞爺丸転覆の謎」(交通ブックス211)
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