「やってみせ、言って聞かせて させてみせ 褒めてやらねば 人は動かじ」
戦後72年(平成29年)であるが未だに深い傷を残す、1945年昭和20年広島・長崎に原爆が落とされた。悲惨かつ残忍な戦争であった「第二次世界大戦」である。
その火ぶたを切ったのが1941年12月7日「真珠湾攻撃」であり、この時の連合艦隊司令長官は山本五十六 その人であった。
当時アメリカを知り尽くし「日米開戦」に反対してきた山本五十六が、なぜ「真珠湾攻撃」を命令し実行したのか?
その時の時代背景と共に「アメリカに恐れられた男」山本五十六の死について調べてみた
山本五十六 と日露戦争
山本五十六は明治17年4月4日に越後長岡藩士「高野貞吉」の6男として産まれた。貞吉が56歳の時に産まれ「五十六」と名付けられる。
彼が「山本」になるには、32年後である。
明治34年、五十六は中学を卒業し江田島の海軍兵学校へと入校した。採用者190名うち2番と言う優秀な成績であった。
しかし1年後半で大きく成績を落としてしまう。プッレシャーもあったのだろう。
海軍兵学校では、席順(ハンモックナンバー)は全て成績順となっていた。生徒達は日常生活の中にでも、成績を意識させられる「エリートシステム」の中に置かれていたのである(この頃、日露戦争が影を落としていた為)
そして五十六が卒業した明治37年「日露戦争」開戦の年となった。
明治38年、五十六は装甲巡洋艦「日進」の艦隊勤務として最前線へ送られた。当時世界から見たこの戦争は「大国ロシアに挑む小国日本」であった。
バルチック艦隊発見との知らせを受け旗艦「三笠」先頭に五十六の乗り込む「日進」は最後尾6隻目であった。ロシアの「スワロフ」「オスラビア」の砲弾は、先頭の「三笠」に27発も直撃し、「三笠」の合図で残り5隻の砲弾が一斉に火を噴いた。
ぐらついたと思われたロシア艦隊は「アレキサンドル」を先頭に出し、砲弾を何発も打ち続けた。
五十六の乗った「日進」も直撃弾を受け、この時彼は左手指2本失い、右足大腿部の裏側の肉をそぎ落とされた。
大出血したが「名誉の負傷」と賞され、3日後ようやく佐世保の海軍病院に送られた。(その後、五十六は常に白手袋をし人前では外さなくなった)
初陣での大出血、戦争は机上のものとは違う事を、身をもって知った体験であった。
その後の五十六は、海軍営内で「三公の位間違いなし」と評される様になる。
海軍の「三公」とは、海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官である。
故郷にしばしば帰る事が多い彼は、大正5年に長岡藩の名跡である山本帯刀家を継ぐ事になる。御年33歳「山本五十六誕生」である。
山本がアメリカで見たものとは?
大正8年(1919年)山本は35歳、アメリカ駐在を命じられた。
ボストンを拠点に隣接するハーバード大学に留学し語学を習得するとともに、アメリカの見識を広げることが目的だった。しかし大学に通ったのは2回しかないと、山本は記録している。
では、どこに行っていたのか?山本はデトロイトの自動車工場に足を運んでいた。特に興味を持ったのは、飛躍的に発達するアメリカの航空機だった。
第一次世界大戦では、潜水艦・軍用飛行船・戦車・近代兵器の他に飛行機が投入され1700万人以上の戦死者・2100万人以上の戦傷者がでたと推測される。
日本にとって、かつての「日本海海戦」以上に大きな衝撃でもあった。
また山本は、大正14年12月~昭和3年まで、ワシントンの日本大使館の駐在武官を勤めている。延べ5年近くのアメリカ生活を体験した事になる。
山本は海軍の中でもっともよくアメリカを知る軍人でもあった。
「デトロイトの自動車工場とテキサスの油田を見ただけでも、アメリカを相手に日本の国力でやり抜ける訳がない」
これは日頃、山本が口にしていた事である。
大正10年(1921年)ワシントン海軍軍縮会議
空母 | 戦艦 | |
米・英 | 約13万トン | 50万トン |
日本 | 8万トン | 30万トン |
仏・伊 | 6万トン | 約17万トン |
昭和5年(1930年)第一次ロンドン海軍軍縮会議(山本全権委員随員参加)
日本は潜水艦約7万トンを要求、若槻礼次郎は米提案の5万2700トンとした。
山本は異議を唱え米・英から「注目すべき日本の軍人」と評される。
大型巡洋艦 | 小型巡洋艦 | 駆逐艦 | 潜水艦 | |
米 | 18万トン | 約14万トン | 15万トン | 5万2700トン |
英 | 約14万トン | 約19万トン | 15万トン | 5万2700トン |
日 | 約10万トン | 約10万トン | 約10万トン | 5万2700トン |
帰国後「海軍航空本部技術部長」に任命され「空母は艦上機を行動させる道具、母艦を飛行機の性能に合わせて設計・改造するべき」と提案する。山本が「海軍航空の育ての親」と言われた由縁である。
それに合わせる様に「戦争の足音」が山本に近づいてきた。
昭和9年(1934年)第二次ロンドン軍縮会議予備交渉不調に終わる
●新条約の締結(日本政府)VS条約破棄(軍令部)に山本は、発言権なし。
成果をあげられず帰国。山本に対し海軍首脳部は冷淡な態度だった。
昭和10年12月「ワシントン海軍軍縮条約」破棄通告
●山本「海軍航空本部長」に任命される。
昭和11年本会議脱退表明する。
●戦艦大和の基本設計が決定する。
山本は永野修身海相から「海軍次官就任」への要請が2度に渡りあり、仕方なく承諾する。
昭和11年2月26日 二・二六事件勃発。同年11月山本暗殺計画の噂がたつ
国際連盟脱退した日本は孤立。ドイツ・イタリアとの三国同盟の道へ
三国同盟は「アメリカ・イギリス」との戦争を覚悟しなければならない。
山本は、軍務局長井上と共に、当時の海軍大臣米内光政を支え「日、独、伊、三国同盟」を阻止した。
「日本に勝つ見込みはない。日本の艦隊は出来上がっていない」と山本は言う。
山本は「連合艦隊司令長官」に任命され「悲劇の英雄」への道へと歩んでいく。次のページへ
[ikemenres]
1
2
この記事へのコメントはありません。