美術館に飾られる名画といえば美しい風景画や肖像画を思い浮かべるものだが、中にはそんな心安らぐ雰囲気とは正反対の異彩を放つ名画が多数ある。
ただ美しいだけでなく、人々の心に一粒の不安の種を植え付けるような絵画たちは、目を背けたくなるような情景が描かれているにも関わらず、なぜか不思議と観る人の心を引き付けてやまないのだ。
今回は数々の怖い絵画たちの中から、女性を主役として描いた作品3つを選び、それぞれの主題の背景や歴史的な出来事について解説していこう。
ノヴォデヴィチ女子修道院のソフィア(レーピン)
眼光鋭くこちらを睨むたくましい女性の後ろの窓には、首を吊られた男の姿がぼんやりと浮かび上がっている。
『ノヴォデヴィチ女子修道院のソフィア』は1879年に描かれた、ロシアの画家イリヤ・レーピンによる作品である。
この作品の主役である皇女ソフィアは、ロマノフ王朝2代目ツァーリであるアレクセイ・ミハイロヴィチ・ロマノフの四女として生まれたソフィア・アレクセーエヴナだ。
ソフィアは女性でありながら高度な教育を受け、強烈な権力志向も持っていた。
異母弟ピョートル1世がツァーリに即位した時にはストレリツィ(銃兵隊)の蜂起を起こさせ、障害を持つ同母弟イヴァン5世をツァーリに即位させて、ピョートル1世には共同統治者の名目を与え田舎に追いやってしまった。
ソフィアはイヴァン5世とピョートル1世の摂政につき、事実上の女性君主として政治の実権を握ったが、クリミア遠征の失敗やピョートル1世が成人したことをきっかけに権力争いに敗北して摂政の座を追われ、モスクワのノヴォデヴィチ女子修道院に入る。
その後の1698年にふたたびストレリツィの蜂起が起こり、ソフィアはその反乱の首謀者として証拠もなく疑われ、修道院の前でも見せしめのために反乱者たちの処刑が行われた。そして反乱を率いた者たちの遺体はソフィアの部屋の窓の外に吊るされたのだ。
この絵の正式名称は『ノヴォデヴィチ修道院に幽閉されて1年後の皇女ソフィア・アレクセーエヴナ、1698年に銃兵隊が処刑され、彼女の使用人が拷問されたとき』だ。
ソフィアを修道女にするよう命令された兵士や修道士たちが、ソフィアの部屋の扉を開けた瞬間に見た光景を想像して描いたのがこの作品なのである。
洗礼者ヨハネの首を持つサロメ(ルイーニ)
柔らかな微笑みを浮かべる美女が持つ器には、今まさに処刑人の手によって聖人の生首が入れられようとしている。
神聖で静謐な雰囲気を放つヨハネの首と、美しく微笑むサロメ(サロメの母ヘロデヤ説もある)、そして醜悪な表情を浮かべる処刑人の対比が見事な作品だ。
『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』は美女と生首という対極的な表現が好まれ、多くの画家に描かれたモチーフである。この絵を描いたベルナルディーノ・ルイーニは、レオナルド・ダ・ヴィンチと直接的な繋がりを持ち、そして彼の影響を強く受けたといわれるイタリアの画家だ。
サロメは聖書の「マルコによる福音書」や「マタイによる福音書」に登場する、イスラエル領主ヘロデ・アンティパスの姪であるとともに義理の娘であり、彼女はヘロデ・アンティパスの前で見事な舞を披露し、その褒美として洗礼者ヨハネの首を欲しがった。
しかし実はサロメ自身がヨハネの首を求めていたわけではなく、サロメの母ヘロデヤが前夫の異母兄弟だったヘロデ・アンティパスと不倫の末に結婚したことを非難したヨハネを憎み、娘にヨハネの首を求めるよう言い含めたのだ。
ギュスターヴ・モローやオスカー・ワイルドの作品では恋した男の首を欲しがる魔性の女(ファム・ファタール)として描かれたサロメだが、元々は毒母の言いなりになる従順な娘だったのである。
作者ルイーニは、レオナルド・ダ・ヴィンチの未完の作品『ほつれ髪の女』を下敷きにしてサロメを描いたと言われている。
はじめ、この絵はレオナルド・ダ・ヴィンチの作品とされていたが、1890年にルイーニの作品として帰属が見直された。
オフィーリア(ミレー)
暖かな春を思わせる緑豊かな景色の中で色とりどりの花を抱いた若く美しい女性が、着衣のまま小川の流れにその身をたゆたえている。絵の中には死と眠りの象徴する花であり、アヘンの原料となる赤いケシの花が印象的に描かれている。
イギリスの画家であるジョン・エヴァレット・ミレーが1851年から1852年にかけて描いた『オフィーリア』は、シェイクスピアの四大悲劇『ハムレット』の登場人物であるオフィーリアの死の直前の姿を描いたラファエル前派の傑作だ。
オフィーリアは主人公ハムレット王子の妃候補の女性で、ハムレットとは相思相愛の中だった。しかし復讐のために気が狂ったふりをするハムレットに容赦なく罵倒された上に父親を殺され、オフィーリアは正気を失ってしまう。
心を病んだオフィーリアは不幸な事故で溺死してしまうのだが、その死に至る情景を描いた場面は「文学史上最も美しく詩的に描かれた死の場面」といわれている。戯曲の中のセリフだけで表現される美しい死の情景を想像して描かれたのが、ミレーの『オフィーリア』なのだ。
絵画の中のオフィーリアのモデルとなったエリザベス・シダルという女性は、服を着た状態で水を張ったバスタブの中に長時間横たわっていたために、ひどい風邪をひき肺炎を患ったという。
その後シダルはミレー主催のラファエル前派に所属する画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと結婚したが、夫の浮気や死産などの度重なる苦労の末に心を病み、アヘンチンキの過剰摂取でオフィーリアのモデルを務めた12年後に自殺同然の形で死んでしまった。
ロンドン留学時に美術館でミレーの『オフィーリア』を見た夏目漱石は、小説『草枕』の中でこの作品について言及し、川面に浮かぶオフィーリアを「風流な土佐衛門」と言い表している。
背景を知ると名画はさらに面白い
今回は3作品を取り上げたが、魅力的で怖い名画は他にも多く存在している。
絵自体を見るだけでも楽しめるが、その絵が描かれた背景を知ることでさらに世界観を深めることができるのだ。
もし興味の湧く絵があったら、皆さんもぜひその絵の背景を掘り下げてみてほしい。
参考文献
山田五郎『「山田五郎 オトナの教養講座」 世界一やばい西洋絵画の見方入門』
中野京子『怖い絵 死と乙女篇』
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