科学で分からないことは、たくさんあります。
そしてそのことを一番わかっているのは、当の科学者かも知れません。
各種メディアでは、オカルト信者の方々が「科学は万能ではない」と主張することがあります。「科学では分からないことが多い」との意見もよく耳にしますが、それは科学者にとって特に目新しい話ではありません。
分からないからこそ、科学者たちは日々研究を続けているのです。
科学とは、未知を探求する営みそのものだからです。
科学は人間の幸福のために
「科学技術は人間性を破壊する。」
産業革命以来、様々なニュアンスの違いはあれ、何度も口にされてきたであろうこの言葉。
近年では、2011年の大震災後、原発事故に端を発した科学批判もネット上で目立ちました。
「科学の発展がなかったらそもそも原発なんて存在しなかったはず。」
「多くの人々が故郷と生活基盤を奪われ、長期の避難生活を余儀なくされることもなかっただろう」と。
その気持ちは、理解できないわけではありません。
しかし実際問題、科学の進展を完全に止めることも、縄文時代のような生活に戻ることも不可能でしょう。
適正な科学とそうでない科学に分ける?
どこにどうやって、誰の責任で線を引きますか?
この種の科学批判は、私に言わせれば少し感傷的すぎます。
冷静に、時間をかけて、そしてもう少し理性的に考えていきましょう。
影響力に違いはあるのだが
ご存じのように、科学の世界にも序列はあります。
○○賞受賞者、マスコミに引っ張りだこの著名な研究者と、そうでもない人と。
そりゃ実績豊富な人の発言に重みがあるのは確かです。
しかし「『偉い人』に決定権が集中する」ということはありません。
個別の会議では、上下関係や立場の違いによって発言がしにくくなったり、意見がかき消されてしまうことが確かにあるかもしれません。
しかし中長期的に見れば、何が真実に最も近い見解なのかは、いずれ自然が決定してくれます。
科学者は人間なりのできる限りのことをして、自然界にお伺いを立てているだけ。
政治の世界のようにカリスマ性が国家国民を支配する、などということはないのです。
科学者にもコントロールできない力学
更に言えば、いずれかの特権階級だけに恩恵をもたらす、というものでもない。
そういう意味で、科学はいたって民主的と言えます。
もちろん、利潤追求のために暴走することもありません。
‥と言いたいところですが、歴史的にはその「暴走」の事例も挙げることは可能です。
例えば、ナチス政権下のドイツ科学界。
特定人種が「劣っている」ことに、科学サイドからお墨付きを与える動きは確かにありました。
政治的思惑や経済的背景が絡むと、真実を追求する科学的手法に則ったプロセスが形骸化し、科学コミュニティの意思がゆがめられてしまうこともあるんですね。
ですが基本的には、科学の世界では誰かの考えが即「絶対正しい」と認められることはありません。
誰かが立てた「仮説」を大勢で吟味し、正否判定し、「正」とすればそれは「どの範囲まで『正』なのか」の吟味がさらに続きます。
失敗と多大な労苦を繰り返しながら、みんなで力を合わせて「正しい」(=よりましな)ものを見つけ、永い年月をかけて積み上がってきたものが、現在私たちの目にする科学的知識体系です。
この活動の根底にあるのは自然への愛と畏怖の念、そして人類幸福への希求。
誰が何と言ってもそれしかないでしょう。(やや言い過ぎかもしれませんが)
科学への新たな脅威
「ロケットの飛ぶ時代に幽霊なんて」などという言い回しを、よく耳にすることがあります。
おそらく、ロケットが科学の代表であり、幽霊は対極的な存在でしょう。
「UFOは非科学的」といったものもあります。
こうした言い回しには、多くの場合、科学の現在の範囲外にあるものを揶揄するニュアンスが込められているのでしょう。
しかし本当は、「科学的」という言葉は現象に対する修辞ではなく、思考過程、真実に迫るプロセスの在り方やその手法に対して用いられるべきものです。
重要なのは、適正なプロセスを経て得られた成果があったとして、ではそれをいかに利用するか、ということ。
そこを無視して一義的責任を科学に負わせるのは、問題の本質を見失うことになります。
人類の好奇心・探求心を止めることなんて、まずムリでしょう。
超心理学の第一人者の一人、ディーン・レイディン教授は、人間の集団心理の激動が量子現象に遠隔作用する実験結果を踏まえ、それが現代科学では解明不能なものだとした上で、以下のように主張しています。
「従来型の科学で捉えられてきた物質とは異なる、非物質的な存在を示すものだ。」
また、自身が急性骨髄炎で生死をさまよい、奇跡的に復活したのちに、脳が停止している期間に自身が体験した臨死体験を発表したアメリカの脳外科医、エベン・アレグザンダー氏も次のように言います。
「私たち人類は、非物質的な現象の研究を今まさにスタートさせようとしているのです。」
彼らに共通するのは未知の不可解な現象の実体験、そして真理に迫る科学的プロセスへの無理解もしくは不信、そしてその否定です。
共通するのは科学に対する認識の甘さ
このように、現代科学の限界を指摘し、それを超越した何かでしか解決できない、とする論調はいつの時代もあるものです。
共通の問題点を挙げるとすれば、それは「科学の矮小化」です。
「科学は意識を扱えない」、「科学は『非物質』を扱えない」と、だれが決めたのでしょうか?
そもそも「物質」とは何でしょうか。
現代物理学でも、フェルミ粒子を狭い意味での物質粒子と定義すればボーズ粒子という「非物質」をすでに扱っている、と言うことはできます。
物理学上の物質概念は、原子・分子からクォークやレプトンなどの素粒子、そして「場」へと変化し、今「超弦」が研究されています。
このように、概念自体が発展・変化している中で、「科学」と「非科学」を安易に線引きするのはいかがなものでしょうか。
「科学は万能ではない」こそ神への冒涜では?
「科学者はなんでも科学で解明できると思っている。」
いえいえとんでもございません。
もしそんな人がいるとしたら、それは科学者ではなく「科学教信者」と呼ぶべきでしょう。
そして、仮に「なんでも解明」できるとしても、それには無限の時間がかかるでしょう。
ただし、科学は「発展し続ける」ものです。
これも疑いようのない事実です。
まずはその発展に期待しようではありませんか。
「科学」と「非科学」の線引きをする方々に問いたいのです。
「科学の発展はここまで」と断定するその根拠は一体どこにあるのでしょうか?
「○○は科学で到達可能だが、××は不可能、それは神の領域だ」などと決めつけてしまうこと自体が、最大の「神への冒涜」なのかもしれません。
参考:『量子の宇宙でからみあう心たち、D. Radin著、竹内薫監修、石川幹人訳、徳間書店』
『プルーフ・オブ・ヘヴン、E. Alexander著、白川貴子訳、早川書房』
文 / 種市孝 校正 / 草の実堂編集部
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