平清盛の娘、高倉天皇の中宮、そして安徳天皇の母として知られる建礼門院徳子。
徳子の生涯について調べてみた。
誕生から入内まで
徳子の生年没年は諸説あるが、仁平3年(1153年)から保元2年(1157)の頃とされる。
仁平3年は、平清盛の父である忠盛が、58歳で亡くなった年である。
清盛は嫡男としてその跡をついだ。そして、保元元年(1156年)7月に宇治の左大臣藤原頼長が崇徳上皇と組んで、反乱を起こした時、清盛は後白河天皇方に味方して勝利。播磨守になり、保元3年(1158年)太宰の大弐となった。
この頃、清盛と妻である時子の間に生まれた娘が「徳子」だった。清盛と時子の間にはこの時すでに、宗盛と知盛という二人の息子がいた。また、徳子の後には、重衡が誕生する。
この時期は平家が政権を掌握していくのに重要な時期であった。
平治元年(1159年)12月、藤原信頼が源義朝と組んで謀叛を起こした時、清盛は二条天皇方について賊徒を討ち、ここからさらに次々と昇進を重ねていき、仁安2年(1167)には太政大臣従一位にまで昇進する。
「平家物語」巻一『吾身栄花』は、清盛を中心とした平家一門の繁栄ぶりを語っている。
吾身の栄花を極むるのみならず、一門共に繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大将、次男宗盛、中納言の右大将、三男知盛、三位中将、嫡孫維盛、四位少将、すべて一門の公卿十六人、殿上人卅余人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。
清盛の娘たちについて書かれている記述の中に、徳子についての記述がある。
一人は后にたたせたまふ。王子御誕生ありて皇太子にたち、位につかせ給しかば、院号かうぶらせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。入道相国の御娘なる上、天下の国母にてましましければ、とかう申すに及ばず。
徳子は承安元年(1171年)高倉天皇に入内し、承安2年(1172年)に中宮となり、後に安徳天皇となる皇子を産む。平家一門の女性たちの中で、もっとも高い地位についた女性と言えるだろう。
この徳子に仕えた女性の中に、右京大夫(うきょうのだいぶ)と呼ばれた女房がいた。歌人としても優れていた彼女が記した「建礼門院右京大夫集(けんれいもんいんうきょうのだいぶしゅう)」にはこんな記述がある。
高倉の院御位の頃、承安四年などいひし年にや、正月一日、中宮の御方へ、内の上渡らせたまへりし御引直衣の御すがた、宮の御物の具召したりし御さまなどの、いつと申しながら、目もあやに見えさせ給ひしを、物のとほりより見まゐらせて、心におもひしこと、
雲の上にかかる月日のひかりみる身のちぎりさへうれしとぞおもふ
高倉天皇が中宮徳子のもとを訪れた場面である。
ここで詠まれた右京大夫の歌は「雲の上」に宮中を重ねて、「月=中宮徳子」「日=高倉天皇」を象徴する。
「このような宮廷に出仕して、天皇と中宮が並び立つ姿を見ることのできる自身の運命を嬉しく思っている」
という旨の歌である。
栄華の絶頂とも言うべき平家のプリンセス徳子であるが、徳子が皇子を出産するまでには、入内から6年ほどの期間を要した。
入内の時の徳子の年齢は17歳前後と推測される。一方、高倉天皇は永暦2年(1161年)の生まれであり、徳子入内の時は、まだ10歳ほどの少年であった。すぐ懐妊とはいかなかったのは仕方がない。
ようやく安元2年(1176年)になって、高倉天皇の最初の子が誕生する。だが、これは徳子との間の子ではなく、乳母との間の子であった。
次に高倉天皇との間に誕生した子はこれまた、徳子とは別の女性との間の子であった。
この時に高倉天皇の子を産んだ女性は通称「小督(こごう)」と呼ばれる。この小督を巡っての物語は「平家物語」巻六に収録されている。
主上恋慕の御思ひにしづませをはします。申しなぐさめ参らせんとて、中宮の御かたより小督殿と申す女房を参らせらる。此女房は桜町の中納言成範の卿の御むすめ、宮中一の美人、琴の上手にてをはしける。
葵前という女童との身分違いのかなわぬ恋に悩んでいた高倉天皇。その心を慰めるために徳子は自分に仕えていた女性である小督を高倉天皇にさしあげたということになっている。
「平家物語(覚一本)」は以下のような物語を記している。
平清盛は、小督が高倉天皇の近くにいては、自分の娘で中宮である徳子と高倉天皇の仲にも悪い影響があると判断して、小督を呼び出して亡き者にしようと考える。このうわさを聞いた小督は内裏から姿を消す。その後、高倉天皇の命をうけた源仲国という者が、嵯峨へと向かい小督を見つけ出し、宮中へと連れ戻す。小督は再び高倉天皇に仕えることとなり、小督は高倉天皇との間に姫君を出産。ところが、それを知った清盛は怒り、小督を出家させて、宮中から追放する。
ちなみに「平家物語(長門本)第十二」では、清盛が小督(小河)に「自分の女になれ」との旨を述べて、拒絶されると、怒って耳と鼻を削いで出家させたとしている。
皇子誕生から福原遷都まで
そのような経緯もいろいろありつつも、治承2年(1178年)徳子はようやく待望の皇子(言仁親王=後の安徳天皇)を出産する。
「平家物語(覚一本)」巻三「御産」の記述である。
頭中将重衡、其時はいまだ中宮亮にておはしけるが、御簾の内よりつッと出て、「御産平安、皇子御誕生候ぞや」と、たからかに申されければ、法皇を始め参らせて、関白殿以下の大臣、公卿殿上人、をのをのの助修、数輩の御験者、陰陽頭・典薬頭、すべて堂上堂下一同にあッと悦びあへる声、門外までどよみて、しばしはしづまりやらざりけり。入道相国あまりのうれしさに、声をあげてぞ泣かれける。
皇子誕生を聞いた清盛は声をあげて泣いたという。
そして、この時の産所であった六波羅池殿には、後白河法皇自らが御幸し祈祷をしたとも記される。
まさに平家の栄華の絶頂を象徴するような徳子の皇子出産の場面である。ところが、皮肉なことに、これと前後して、打倒平家の動きが徐々に盛んになっていく。
この徳子出産と前後して既に平家打倒の動きがうごめき始めていた。
その第1弾は「鹿ヶ谷事件」である。治承元年(1177年)後白河法皇の近臣が平家打倒を企てた陰謀事件であった。
多田行綱の密告により謀議が発覚し、関係者は処罰され、平判官康頼,俊寛僧都,藤原成経の3人は、鬼界ヶ島へ流罪となった。
なお、徳子出産に当たって平判官康頼,藤原成経の2名には恩赦が出されたが、俊寛は赦されず鬼界ヶ島へ取り残されたと「平家物語」は記している。
治承3年(1179年)11月、清盛は関白以下43人を外官し、後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉し、院政を停止し、これにより清盛は政権を完全に掌握する。
治承4年(1180年)2月には高倉天皇が、徳子の産んだ言仁親王(安徳天皇)へ譲位。
「平家物語」巻四『厳島御幸』にはこのように記されている。
「二月廿一日、主上ことなる御つつがもわたらせ給はぬを、おしおろしたてまつり、春宮践祚あり。これは入道相国よろづおもふさまなるが致すところなり。」
(2月21日に、高倉天皇が特に御病気などというわけではないのに、皇位から下し申し上げて、東宮へ位を譲りなさった。これは清盛入道の思いのままの振る舞いによるところである。)
4月には安徳天皇が正式に即位し、とうとう清盛の孫が天皇となったのである。
だが、このことが、平家打倒の動きの第2弾を勃発させることとなる。後白河法皇の子であった「以仁王」が平家打倒の令旨を発したのだ。
源頼政と組んだ以仁王の謀叛はすぐに鎮圧されたが、以仁王の発した令旨は平家打倒に大義名分を与えるものとして、諸国の源氏へと届けられた。
治承4年(1180年)の動きは慌ただしい。6月には清盛は福原への遷都を強行する。「平家物語」巻五『都遷』はこう記す。
治承四年六月三日、福原へ行幸あるべしとて、京中ひしめきあへり。此日ごろ都うつりあるべしときこえしかども、忽ちに今明の程とは思はざりつるに、こはいかにとて上下さわぎあへり。
この時、徳子が、幼き我が子 安徳天皇と、同じ輿に乗ることができなかった旨も記されている。
主上は今年三歳、いまだいとけなうましましければ、なに心もなう召されけり。主上をさなうわたらせ給ふ時の御同輿には、母后こそ参らせ給ふに、是は其儀なし。
ところが、この福原遷都から、わずか数ヶ月の後に、京都への還都が行われる。
同十二月二日、にはかに都がへりありけり。(「平家物語」巻五『都帰』)
そして、間もなく、徳子にとってこの上もなく悲しい出来事が起こるのである。
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