「聴覚」は、人間にとって生き延びるために不可欠な五感のひとつである。
人類は太古より、茂みに潜む獣の気配や物音、微かな息遣いに耳を澄ませることで、数多の危険を察知し、命を守ってきた。
だが、実態のある猛獣ならまだしも、「姿を見せない」妖怪が相手の場合、危険を回避することは難しい。
なぜならその正体を暴こうにも、どこにいるか分からないうえに、奴らの出す「音」を聞いた時には、すでに手遅れな場合が多いからだ。
今回は、そんな「隠れて音を立てる」卑劣な妖怪たちについて具体的に解説していく。
1. 小豆洗い

画像 : 小豆洗い 桃山人『絵本百物語』より public domain
小豆洗い(あずきあらい)は、日本各地に伝わる妖怪である。
「ショキショキ」と小豆を洗うような音を立てる妖怪であり、どのような姿かは判明していない。
小豆を洗う音の他にも、「小豆洗おうか♪人とって食おうか♪」という、物騒な歌を口ずさむことでも知られる。
基本的には音を立てるだけの無害な妖怪だが、夜中に「人間を食う」などと歌う声が聞こえてきたら、恐怖のあまり眠れなくなるだろう。
そういった意味では、はた迷惑な妖怪であるといえる。
また、地域によっては、有害なタイプの小豆洗いの伝承も存在する。
たとえば大分県の小豆洗いは、先述した歌で人を惑わせ、川へ誘導すると伝えられている。
暗闇で川へ落ちてしまえば、最悪溺れ死ぬこととなり、大変危険である。
また、群馬県や島根県の小豆洗いは、人を誘拐するとされる。
旅行に行く際は、その土地の「ご当地小豆洗い」を事前に調べておくことで、危険を回避できるだろう。
2. 古杣

画像 : 古杣『絵本集艸』より public domain
古杣(ふるそま)は、四国地方に伝わる妖怪である。
深夜、山の方から突然、木を切るような音が聞こえたかと思ったら、次の瞬間には「ドーン!」と大木が倒れたかのような轟音が鳴り響く。
木こりたちは不思議に思い、夜明けに山の中に入ってみるが、どこにも切られた木など存在しない、という怪現象は古杣によるものとされる。
地域によっては、「いくぞー!」という声が聞こえてきたり、小屋が勝手に揺れるなどの怪異も起こるという。
その正体は、切り倒した木の下敷きになった、木こりの幽霊だといわれている。
他にも、墨壷や墨差しが、化けたものという説もある。
墨壷とは墨の付いた糸で線を引く工具のことで、墨差しとは竹で作られたペンである。
共に林業では欠かせない道具であり、現在でも使われ続けている。
3. 置行堀

画像 : 三代目歌川国輝『本所七不思議之内 置行堀』 public domain
置行堀(おいてけぼり)は、かつて東京都墨田区の錦糸町にて巻き起こったとされる、怪現象である。
本所(墨田区の古い呼び名)で語り継がれる怪談、『本所七不思議』の一つに数えられている。
江戸時代、ある町人たちが錦糸町辺りの堀で釣りをしていたところ、大量の魚が釣れたという。
ウキウキ気分で家路につこうとしたところ、堀の中から突然「置いてけ~!」と、この世のものとは思えぬ声が聞こえてきたそうだ。
恐ろしさのあまり町人たちは大急ぎで家に帰ったが、不思議なことに籠の中に入れていたはずの魚が、一匹残らず消え去っていたという。
その正体は、河童ともタヌキともいわれている。
また、「ギバチ」というナマズの仲間は、ギーギーと唸り声のような音を発することで知られ、これを妖怪と誤認したという説もある。
4. シュリーカー

画像 : シュリーカー 草の実堂作成(AI)
シュリーカー(Shrieker)は、イギリスに伝わる妖精である。
イングランド北部のヨークシャーや、北西部のランカシャーなどの森に、この化け物は生息しているとされる。
不可視の存在であり、怪音を立てながら森林内部を、夜な夜な徘徊するという。
その音は「パタパタ」とも「ボロ靴を履いて泥の上を歩くような音」とも形容される。
また、恐ろしい金切り声を上げることもあり、その声を聞いてしまった人間は、近い内に死んでしまうとのことだ。
一説によると、シュリーカーは大きな前足を持った、黒い犬の姿をしているとされる。
イギリスでは様々な「黒い犬」の伝承が残っており、大抵の場合、その姿を見てしまった者は不幸に見舞われると伝えられている。
5. トルネンブラ

画像 : トルネンブラ 草の実堂作成(AI)
トルネンブラ(Tru’nembra)は、音を司る邪神である。
アメリカの作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(1890~1937年)とその一派が創り上げた『クトゥルフ神話』という神話体系において、その存在が言及されている。
特定の姿形が存在しない、意志のようなものを持った「音」そのものの怪異である。
普段は宇宙のどこかで音楽を奏でているが、時折、優れた才能を持つミュージシャンを探し求め、我々の世界に来訪する。
そして気に入ったミュージシャンに憑りつき、脳内に音楽を流し続ける。
トルネンブラの奏でる音楽は、不気味だが不思議と魅力のある調べであり、ミュージシャンは無我夢中で、この音楽の演奏に心血を注ぐ。
そして狂ったような演奏の後、ミュージシャンの魂はトルネンブラに連れ去られ、その場には抜け殻となった肉体のみが残る。
奇妙なことに、この肉体は血が通っていないにもかかわらず、延々と音を奏で続けるそうである。
このトルネンブラという存在は、ラヴクラフトの短編小説『エーリッヒ・ツァンの音楽』に登場する怪異に端を発するとされている。
同作では、ヴィオル(バイオリンに似た楽器)を奏でる老人が、正体不明の怪音に取り憑かれていく様が描かれる。
後年、この作品にさまざまな解釈や設定が加えられた結果、トルネンブラという名の怪異が創出されたというわけである。
参考 : 『絵本百物語』『絵本集艸』『神魔妖精辞典』他
文 / 草の実堂編集部
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