中国陰の主役である宦官
中国の歴史を語る上で欠かせない存在、それが 宦官 (かんがん)である。
古代の中国の歴史書を見ると必ず宦官が登場するが、悪こそ目立つと言うべきか、皇帝以上の権力を持って政治を牛耳り、更には皇帝を殺してしまうなどやりたい放題暴れ回り、強烈なインパクトを与える。
今回は中国の歴史に於ける陰の主役というべき宦官にスポットライトを当てて、宦官の成り立ちと、後漢の衰退を招いた宦官と外戚の権力争いを調べてみた。
宦官とは 何か
宦官に付いて一言で解説すると、宮中で働く「去勢された官僚」を示す言葉であり、当初は宮中の雑用がメインの仕事だった。
宦官=去勢のイメージが強いが、去勢するのは宮刑による見せしめの他に「宮中で間違いを起こさないため」という意味合いがあった。(古代ヨーロッパやイスラム、韓国にも宦官は存在していたが、今回は中国の宦官の歴史に絞って述べる)
現存する史跡や名所を見ても分かる通り中国の宮廷は巨大であるため、皇帝や皇后、更にはその子供の世話の他、宮中の掃除といった家事をするだけでもかなりの人数が必要となる。
勿論、人を雇うにもお金が必要になるが、安価かつ大量の労働力を確保するための「補充先」として白羽の矢が立ったのが奴隷や罪人だった。
経費を掛けずに数を揃えられる事もあって、宮刑(去勢の刑)を受けた者や他国から献上された奴隷が主な労働力となったが、宮中で働けるという事もあって生活に苦しんでいた貧困層が自身の職を確保するために志願するなど、宦官の登場は中国の歴史だけでなく労働環境も大きく変える事になった。
余談だが、宮中はとにかく人手を必要としていたため、希望すれば受け入れては貰えたが、競争相手が何千人もいるという環境の中で出世するのは至難の業であり、後世に名前が残る事なく一生を終える者がほとんどだった。
宦官の出世争い
この通り宦官として出世出来る者は一握り中の一握りだったが、その「一握り」になるため、宮中では宦官による激しい出世争いが繰り広げられていた。
そして、出世の近道は皇帝に気に入られる事である。
宦官は皇帝の目に留まるため自分の特技を磨き、褒められたら逆に皇帝をおだてて更にかわいがられるなど徹底して気に入られるよう努力する。
そして、自身の思惑通り皇帝に近付けた者が出世争いの「勝者」となる。
中国の宮中に限らず、現代社会でも上司に気に入られた者が出世するのは珍しい話ではないが、宦官の出自を辿ると元は奴隷や罪人、更には貧困層が大半であったため、彼らの出世に対する貪欲さはある意味現代以上だった。
また、皇帝から見れば宦官は単なる「道具」でしかなく、皇帝の機嫌を損ねれば言葉の通り「クビを切られてしまう」事も有り得たため、宦官は皇帝の機嫌を損ねないよう常に神経を磨り減らしていた。
文字通り命懸けの仕事である宦官の苦労など気にする事なく、皇帝は彼らを便利な道具として使っていた訳だが、その道具が想像以上に「使える」事が分かれば自分の世話だけでなく、皇帝の仕事である政治まで宦官に任せるようになってしまう。
ここまで来たら後は歴史が伝える通り、皇帝の道具だった宦官が政治的権限を握ると政治を私物化し、不都合な事柄は皇帝に伝わる前に揉み消すなど好き放題やって宮中を混乱に導く事になる。
そして、宦官を排除しようとする勢力と、それを迎え撃つ宦官(もしくはその逆の構図)による抗争が始まる事になる。
後漢末の権力争い
また、三国志の幕開けとなる後漢末期は外戚(皇帝の母親である皇后の親戚)が権力を握ろうとしたら宦官に殺され、宦官が権力を握ったら今度は外戚に殺されるという、正に泥沼というべき時代であり、宦官と外戚の権力争いが後漢の衰退を招くきっかけとなった。
いつ終わるとも知れない宦官と外戚による抗争はその後も続き、外戚の代表格として大将軍に就いていた何進(かしん)は十常侍と呼ばれる宦官の集団を取り除く計画を立てるが、何進は十常侍に謀殺されてしまう。
外戚の最大勢力であった何進の死によって宦官が有利になると思われたが、何進殺害を知って復讐にやって来た袁紹に十常侍も滅ぼされてしまい、後漢の権力争いはまさかの共倒れに終わる。
一方、十常侍によって洛陽の外に連れ出されていた少帝と弟の陳留王(後の献帝)だが、何進の招集に応じて洛陽付近に来ていた董卓によって保護されて無事に洛陽へと帰還する。
十常侍が滅びた事により漢室を大きく衰退させた外戚と宦官の争いはこれで終わると思われたが、董卓は外戚よりも宦官よりも横暴で厄介な人間であり、彼の暴政によって宮中どころか中国全土を混乱に陥れる事になる。
後漢末期は宦官と宦官排斥勢力の争いだったが、宦官が裏で政治を支配する時代の終焉は、本来政治を行うべき皇帝が権威を取り戻すのではなく、董卓によって更なる戦乱と混迷を招く皮肉な結果となった。
宦官のその後
袁紹によって有力なグループが皆殺しにされるといった事件はあったが、宦官という職業がなくなる事なく、三国時代以降も存在した。
そして、これまでのように皇帝に代わって権力を握っては滅ぼされるという権力争いを繰り広げた。
宦官が廃止されたのは清王朝が滅亡した1912年で、20世紀初頭までは存在していた。
正確には清が滅亡したのを機に宦官の新規採用を停止しただけで、いわゆる「ラストエンペラー」の異名で有名な溥儀(ふぎ)の世話役として、宦官は紫禁城でこれまで通り働いていた。
1923年、家庭教師だったレジナルド・ジョンストンの進言によって溥儀は紫禁城の経費削減、及び宦官による汚職の横行から宦官の追放を試みているが、広大すぎる紫禁城の管理と溥儀の世話をする者がいなくなってしまったためすぐに追放した宦官を呼び戻している。
翌1924年、馮玉祥(ふうぎょくしょう)のクーデターによって溥儀は宦官とともに紫禁城から追放され、今度こそ宦官が歴史から姿を消す事になった。
政変がある度に皆殺しなど物騒な事件を起こして来た宦官だが、2000年以上に及ぶ歴史の終焉は呆気ないほど静かなものであった。
また、溥儀とともに追放された宦官は2000人もいたと言われているが、元宦官の中には1990年代まで生きて長寿を全うした者もいたとの事で、中国の陰の主役というべき宦官はつい30年ほど前までこの世に「存在」していた。
蒼穹の昴読むと宦官についてよく分かりますよー