棗(なつめ)のような赤い顔から伸びる三牙のヒゲ(口の髭、頬の髯、顎の鬚)……どこかで見たような顔だと思ったら、この男、実は『三国志』屈指の名将として知られる関羽(かん う。字は雲長)の子孫だと言うではありませんか……。
彼の名は関勝(かん しょう)、中国の四大奇書『水滸伝(すいこでん)』に登場する豪傑で、大刀(だいとう)の二つ名が示す通り、父祖伝来の青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を奮い舞わす雄姿は、祖先・関羽に勝るとも劣らなかったと言われます。
ただ強いばかりではなく、仁義に篤い関羽は中国大陸のみならず、日本を含む広くアジア各国に関羽を祀る関帝廟(かんていびょう)が建てられるなど高い人気を誇っており、その二番煎j……もとい子孫となれば、読者のハートを掴めること間違いなし!
……と、作者が思ったかどうかはともかく、そんな「いかにも」狙ったような設定だけに、ほぼ100%架空の武将かと思っていましたが、この関勝、本当に実在していたようです。
※『水滸伝』は北宋王朝(建隆元960年~靖康二1127年)を舞台に、梁山泊(りょうざんぱく。現:山東省)に立てこもった叛乱の首謀者・宋江(そう こう)をはじめ、多くの実在人物が登場します。
さて、実在の関勝はどのような人物だったのでしょうか。今回はそれを調べてみました。
まずは『水滸伝』の関勝を紹介
しかしその前に、そもそも『水滸伝』に馴染みのない方も少なくなさそうなので、念のため『水滸伝』における関勝の活躍について紹介しておきます。
元は蒲東県(現:上海市東部)で巡検(捕り方の下級役人)を務めていましたが、その将器を見込まれて梁山泊討伐に抜擢。義兄弟の郝思文(かく しぶん)と共に都へ上りました。
(※関羽の末裔というブランドと、祖先の名に恥じぬ武力や将器を持っていながら永らく下級役人に甘んじていたのは、きっとその清廉さゆえに出世できなかった、あるいは興味がなかったのでしょう。腐敗した当時の世相が偲ばれます)
そして梁山泊の好漢たちと対決。林冲(りん ちゅう。豹子頭)や秦明(しん めい。霹靂火)と言ったトップクラスの豪傑たちと互角に渡り合い、夜襲を仕掛けて来た水軍の張横(ちょう おう。船火児)や阮小七(げん しょうしち。活閻羅)を捕らえるなど、梁山泊の軍勢を苦しめます。
しかし計略によって捕らわれてしまい、宋江の説得に感服し、梁山泊の仲間入り(『水滸伝』の後半は、大抵このパターンです)。それからは五虎大将の筆頭として大活躍、力を合わせて祖国・北宋王朝のピンチを救うのでした。
この五虎大将という称号も『三国志演義』の設定まんまですが、ちなみに序列はこのようになっています(カッコは『三国志演義』で該当する武将)。
第一位:大刀 関勝(関羽)
第二位:豹子頭 林冲(張飛)
第三位:霹靂火 秦明(趙雲)
第四位:双鞭 呼延灼(馬超)
第五位:双鎗将 董平(黄忠)
※第三位以下は両作品でイメージが大きく異なるものの、関勝は言うに及ばず、第二位の林冲は『三国志演義』の張飛そのもののキャラクターとなっています。
さて、ラスボスの方臘(ほう ろう)を倒した後はその武功によって武節将軍大名府正兵馬総管という物々しい称号を与えられますが、ある日、訓練からの帰り道、酔っ払っていて落馬、それが原因で亡くなってしまいました。
仕事中に飲酒ってどうなのかというツッコミはさておき、数々の武功を挙げた救国の英雄としては、ちょっと寂しい末路を辿ったのでした。
関勝のモデルとなった二人の人物
『水滸伝』の時代に言及する史料を見た限り、関勝のモデルと思しき人物を二人発見。
まず、元王朝(14世紀)の歴史書『宋史(そうし)』には同姓同名の関勝が登場しますが、別に関羽の子孫という確証はなく、また宋江の叛乱にも参加していません。
この関勝は祖国を裏切って金国(きん。北方の騎馬民族)の手先となった劉豫(りゅう よ。元豊元1078年~皇統三1143年。金の傀儡国家・劉斉王朝の皇帝)に殺されてしまい、その野望を阻止することはかないませんでした。
また、南宋王朝(13世紀)の説話集『大宋宣和遺事(だいそうせんないじ)』では梁山泊に立て籠もった宋江の一味に「大刀 関必勝(かん ひっしょう)」と言う二つ名込みでそっくりな好漢が登場します。
『宋史』の関勝も大刀の使い手だったそうですが、そちらはかつて賊であった(or賊となった)記述はないようなので、恐らく似た名前の別人である可能性が高いです。
総大将の宋江もそうですが、よく似た名前の人物が同時代に実在していると、いろんな可能性やストーリーが生み出されて興味深いですね。
実在した関羽の祖先は?
ちなみに、関勝の祖先という設定である関羽の子孫は実際どうなのかと言いますと、蜀漢が魏によって滅ぼされた炎興元263年、魏の将軍・龐会(ほう かい)によって関羽の嫡孫である関彝(かん い)は一族皆殺しにされてしまったそうです。
この龐会は以前、関羽によって討たれた魏の将軍・龐徳(ほう とく)の遺児で、仇敵の子孫を根絶やしに討ち滅ぼすことで、晴れて父親の怨みを雪(すす)いだのでした。
しかし一説には関彝の庶子・関夷(かん い)が生き延びて血脈をつなぎ、劉宋王朝(南北朝時代)の学者・関康之(かん こうし。5世紀)や、唐王朝の宰相・関播(かん は。8世紀)など、多くの逸材を世に出したと言われます。
他にも出どころの怪しい系譜がたくさん出回り、現代でも少なくない関さんたちが「関羽の子孫」を称していますが、その真偽を問うよりも、いかに関羽が人々に慕われ、愛されてきたかを感じ、彼に恥じない生き方を心がけたいものです。
※参考文献:
高島俊男『水滸伝人物事典』1999年11月
高島俊男『水滸伝の世界 (ちくま文庫)』2001年12月
宮崎市定『水滸伝 – 虚構のなかの史実 (中公文庫)』2017年3月
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