中国史

モンゴル帝国最後の皇帝エジェイ・ハーンについて調べてみた

かつて世界の1/4~1/3を征服し、ユーラシア大陸にその名を轟かせたモンゴル帝国

その創始者(初代皇帝)はチンギス・ハーン(1162年~1227年)と誰もが知っているでしょうが、最後の皇帝は誰か?と訊かれると、ピンと来ない方の方が多いのではないでしょうか。

その名はエジェイ・ハーン(Эжэй хаан、額哲孔果爾)。初代チンギス・ハーンから数えて41代目に当たります。

エジェイ・ハーン。Wikipediaより(出典:名人简历)

果たして彼はどんな生涯を送り、どんな思いでモンゴル帝国429年の歴史に幕を下ろしたのでしょうか。

今回はそんなエジェイ・ハーンを取り巻くモンゴル帝国の滅亡史を紹介したいと思います。

父の急死により、若くして大ハーン位を継ぐが……

エジェイ・ハーン(実名エジェイ・ホンゴル)は北元王朝(※)皇帝リンダン・ハーンの子として誕生しました(生年不詳)。

(※)北元王朝とはかつて中国大陸を支配していた元王朝が朱元璋(しゅ げんしょう。明王朝の祖)によって北へ追われた(もとからいたモンゴル草原へ戻った)ことからそのように呼ばれています。

17世紀に入ると北元王朝の宗家ボルジギン氏は求心力を失っており、モンゴルの諸部族は分裂状態にありました。

そんな中、どうにかモンゴル帝国を建て直そうと父リンダン・ハーンは1634年、チベット遠征に乗り出しますが、その途上に病死してしまいます。

リンダン・ハーン。Wikipediaより(画像:Elder U.M.G氏)

「父上……!」

国許に残っていたエジェイはただちに父の後を継いで即位しますが、まだ若かったため国内をまとめ切れず、モンゴル東方から満洲地方に盤踞していた女真族(ジュルチン。後金王朝)の侵略を招きました。

「おのれ、逃げたか!」

「まだ遠くへは行っていないはずだ、探せ!」

辛くも女真族の追手を逃れたエジェイは、捲土重来を期してしばらく潜伏していたものの、もはや再起の望みなしと見限られており、誰からも支援の手が差し伸べられぬまま降伏を決断します。

「父上、太祖(チンギス・ハーン)様。申し訳ございませぬ……!」

かくして1635年、エジェイは女真族に完全包囲された中、元王朝から伝来する玉璽(ぎょくじ。帝王の証)を後金皇帝・ホンタイジ(アイシンギョロ・ホンタイジ。愛新覚羅皇太極)を献上。

ここにチンギス・ハーンの興したボルジギン宗家によるモンゴル帝国は名実ともに終焉したのでした。

「我こそは天下のあまねく全モンゴル同胞を統べし大ハーンなり!」

全モンゴルの支配者となったホンタイジ。Wikipediaより

翌1636年、ホンタイジはセチェン・ハーン(満洲語でスレ・ハン)を称し、モンゴルの全部族を招集してボルジギン氏によるモンゴル支配の終焉を宣言。国号を後金から大清(だいしん。以下、清)帝国と改め、自ら皇帝に即位しました。

「……とは言うものの、旧主を粗末に扱ったらさすがにモンゴル人たちの反感を買うだろうから……」

と、ホンタイジは最後のお飾りに過ぎなかったとは言え、大ハーンであったエジェイを厚遇。自分の次女マカタ・ゲゲ(固倫温荘長公主)を嫁がせて清王朝の皇族扱いとしたほか、外藩親王(チャハル親王)としてわずかながら旧領チャハル・ウルスを安堵します。

「まぁ、悪いようにはされておらぬし、これが分相応だったと言うべきか……」

清の崇徳6年(1641年)、失意の内にエジェイは没しますが、話はまだ終わりません。

アブナイ父子の野望と、その壮絶な最期

エジェイには子供がいなかったため、その遺領とチャハル親王の位は弟のアブナイ(阿布奈)が継ぎますが、このアブナイはかねがね清王朝に対して反抗的な姿勢を見せていました。

「モンゴルの地を統べ治(し)らすべきは、蒼き狼(ボルテ・チノ)の末裔にして偉大なるチンギス・ハーンの子孫たるべきではないか!」

これを危険視した当局は康熙8年(1669年)にアブナイを軟禁。チャハル親王位はその子であるブルニ(布爾尼)が継承します。

「……そなたは父のような野心を抱かず、チャハルの民を安んずるのだぞ」

「ははあ……」

しかし、ブルニは父譲りの野心を押し隠しており、従順な姿勢を装いながら、虎視眈々と決起の時を狙い続けました。

「今に見ておれ……今に見ておれ……」

耐え忍ぶこと4年、康熙12年(1673年)に雲南の呉三桂(ご さんけい)、広東の尚之信(しょう ししん)、福建の耿精忠(こう せいちゅう)ら漢族の武将が清王朝に叛旗を翻したのでした。後世に言う「三藩の乱」です。

三藩の一人・耿精忠。Wikipediaより

彼ら漢民族(かつて元を北に追った明王朝)もまた、エジェイの死後間もなく滅ぼされていたため、清王朝に対して叛乱の機会を狙っていたのでした。

「よし、この機に乗じることなくして、決起の成功はない!」

ブルニは弟のルブズン(羅布藏)と共に挙兵し、軟禁されていたアブナイも脱出してこれに合流。後世「ブルニ親王の乱」と呼ばれる叛乱の火蓋が切られたのです。

……が。心意気だけで勝算のない戦いに命を賭ける物好きはほとんどおらず、日ごろから善政に努めて支持を得ていたチャハル部族3,000名以外に兵が集まりません。

「兄上!」

「うろたえるな!今さら降伏したって助かりゃしねぇンだから、チンギス・ハーンの末裔に恥じぬ最期を見せてやるまで!」

「おう、それでこそ蒼き狼の子ぞ!」

康熙14年(1675年)4月20日、ブルニ親王軍は清との決戦に敗れて玉砕。アブナイ父子は壮絶な最期を遂げ、モンゴル帝国復活の野望はここに潰えたのでした。

チャハル王族の男という男は(清から送り込まれた公主の産んだ赤子を含め)すべて処刑され、女は清の公主を除いて奴隷として売り飛ばされたそうです。

エピローグ

世界史上まれに見る英雄チンギス・ハーンは、人々の心に今も生き続ける。Wikipediaより

かくしてボルジギン氏によるモンゴル帝国は完全に滅び去りましたが、他の子孫によるモンゴル系の諸王朝はチンギス・ハーンの血脈を保ち、その権威は20世紀まで続きました。

今では民主主義国家として君主を仰ぐことはないモンゴル国ですが、人々の心にはなお偉大なるチンギス・ハーンの末裔たちが君臨し、彼らの誇りとアイデンティティを支える英雄として生き続けています。

※参考文献:
岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
立花丈平『清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ―清朝を築いた英雄父子の生涯』近代文芸社、1996年
和田清『東亜史研究〈〔第2〕〉蒙古篇 (1959年) (東洋文庫論叢〈第42〉)』東洋文庫、1959年

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 清朝の姫たちは爪がものすごく長かった 「西太后の爪は20センチ」…
  2. 木蘭がどんな女性だったか調べてみた【ディズニー映画「ムーラン」の…
  3. 【古代中国】どれくらい『休日』があった? 「漢・唐・宋・元・明・…
  4. 『古代中国遺跡から宇宙船のハンドルが発掘?』 謎の三星堆遺跡 「…
  5. 万里の長城は時代と共に変化していった 「春秋、秦、漢、金、明」
  6. 秀吉は薩摩人で明智光秀は二人いた? 明史-日本伝 【中国から見た…
  7. 兵馬俑の最新調査について調べてみた【始皇帝の地下軍団】
  8. 始皇帝と秦王朝の中国統一までについて調べてみた

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

人間とクジラの「会話」が、宇宙人とのコミュニケーションに役立つ?

SETI研究所がザトウクジラの通信システムを研究宇宙人による宇宙文明を発見するプロジェクトを…

「奈良時代から明治時代までの1100年、日本史からアクセサリーが消えていた」 日本における指輪の歴史

指輪がどこでどういう形で誕生したのかは、ハッキリしてはいない。確実なのは、古代エジプト時代に…

黒田騒動 ~筆頭家老が藩主を訴えた前代未聞の江戸三大お家大騒動

黒田騒動とは黒田長政は、豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の息子で、関ヶ原の戦いで徳川家康を助け、福岡藩…

兵馬俑は生きた人を使って作ったのか? 「始皇帝の陸墓」

始皇帝兵馬俑を作った始皇帝の一生を一言で言えば、言わば英雄そのものだった。自ら一代で秦の…

宝塚記念の歴史「淀に咲き、淀に散る」ライスシャワー

宝塚記念(3歳以上オープン 国際・指定 定量 2200m芝・右)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競…

アーカイブ

PAGE TOP