北宋滅亡の悲劇
唐王朝の滅亡後、中華の地を治めていた宋王朝(※以下北宋と称す)は文治主義(ぶんちしゅぎ)を中心とした国づくりを進めていたため兵士は弱く、常に北方の「遼」に脅かされながらも、莫大な盟約金を支払っていたため、平和を維持することに成功していました。
しかし、次第に北宋は国力を弱め、各地で反乱が勃発。さらに遼に対しての盟約金を払うことさえ困難な状況に追い詰められます。
そのような中、遥か北方の満洲女真族による「金」が勢力を拡大し、北宋は金国と共に仇敵である遼を滅ぼすことに成功します。
しかし、これが北宋にとって最悪の事態を招くこととなります…。
今回は北宋を滅亡に追いやった「靖康の変(せいこうのへん)」により、北宋の宮廷から国中の女性たちを悲劇のどん底に突き落とした売春宿「洗衣院(せんいいん)」についてご紹介いたします。
北宋について
北宋は960年に趙匡胤(ちょうきょういん)が建国したことによって誕生しました。
北宋は軍人よりも官僚に重きを置く「文治主義」を中心とした国づくりを行ったため、文化の発展は目覚ましいものがあったのですが、軍事力は弱かったため、北方の契丹族の国家である「遼国」に悩まされていました。
その後、1004年に宋は遼との間に不戦同盟である「澶淵の盟(せんえんのめい)」を結び平和へと漕ぎつけますが、これは北宋が毎年「絹20万疋・銀10万両」を送るという条件でした。
しかし、初期の北宋は財政が潤っていたため、「これくらいなら全然安い」と考えており、悪くない条件だったのです。
北宋滅亡への道
遼との不戦同盟締結後、文治主義と潤沢な資金のおかげで北宋に多くの技術や文化が花開きました。
しかし、一方で北宋の官僚たちの間で新法・旧法を巡る争いが発生し、新法派の王安石(おうあんせき)と旧法派の司馬光(しばこう)との派閥争いは長きに渡り、北宋政治は大きな混乱を招きます。
一方、北方では満洲女真族の起こした「金」が勢力を拡大し、遼を圧迫していました。
これを好機と見た北宋は1120年に金国と「海上の盟(かいじょうのめい)」と呼ばれる同盟を結び、遼を滅ぼすことに成功します。
しかし、これが北宋にとって最悪の状況を呼び起こします…。
靖康の変
遼を滅ぼし有頂天となった北宋首脳部でしたが、今度は金国を攻撃すべく、密かに遼の残党勢力と連絡を取り合い始めます。
しかし、これを知った金国の二代皇帝である呉乞買(ウキマイ)は激怒し、1126年に大軍を率いて南下を開始し、北宋の首都である開封(かいほう)を目指し進撃します。
弱兵の北宋軍は瞬く間に蹴散らされ、金軍は開封を包囲。北宋に和睦の条件として、莫大な財貨を要求します。
一応、条件を呑んだ北宋に対し、金軍は一旦退却しますが、財政難となっていた北宋に払えるわけもなく、翌1127年に金国は再び開封を包囲し、これを落城させます。
城内に突入した金軍は財宝を略奪し尽くすと、8代皇帝である徽宗(きそう)と長男である欽宗(きんそう)を捕虜とし、さらに開封に住まう宮女から平民に至る全ての女性を捕虜にするという暴挙に及びます。
この事件を靖康の変(せいこうのへん)と言います。
凌辱の嵐
開封を占領した金軍の暴虐は凄まじく、『南征録匯』に以下のように書かれています。
「開封府の港には人の往来、絶え間なく続き、婦女より嬪御まで妓楼(売春宿)を上下し、その数五千を超え、皆盛装を選び出ず。
選んで収むること処女三千、入城を淘汰し、国相(粘没喝※ネメガ 金の将軍)より取ること数十人、諸将より謀克(ムケ※金の役職名) までは賜ること数人、
謀克以下は賜ること一、二人。韋后、喬貴妃(北宋の皇女)ら北宋後宮は貶められ、金国軍の妓院(売春宿)に入れられる。」
捕縛された女性らのほとんどは金国の将軍、兵士らから辱めを受け、叫び声が開封に響いたと言われています。
また、捕縛された女性の数は皇女、女官、平民らを合わせて1万人を超えており、なかには4歳の女児まで含まれていました。
洗衣院
捕縛され金の将兵らに辱めを受けた女性たちは、北宋皇帝の徽宗らと共に遠い金国の首都上京(じょうけい)へと連行されます。
また連行の途中も辱めは続いたため、以下のように伝えらえれています。
「掠(かす)められた者、日に(毎日)涙を以って顔を洗い、虜酋(りょしゅう※金皇帝・皇族・貴族・将帥など)共、皆婦女を抱いて、酒肉を欲しいままにし、管弦を弄し、喜楽極まりなし」
欽宗の皇后仁懐皇后朱氏の妹である朱鳳英(しゅほうえい)は道中に詩を読むよう強要され、従姉の朱慎徳妃とともに屈辱的な境遇を嘆く詩を詠んだといいます。
その後、なんとか金国領内に辿り着いた女性らですが、悲劇は続きます…。
連行された女性らは値段を付けられ、金が設置した洗衣院(せんいいん)と呼ばれる妓院(売春宿)で娼婦となり性的奉仕を強要されます。
北宋の高貴な女官らに至っては金の将軍たちの愛妻とされ、後に高値で洗衣院に払い下げられるという屈辱を受けています。
洗衣院での地獄の待遇
洗衣院においては女性らは
「上半身を露(あらわ)にし、羊裘(ようきゅう、かわごろも)を被せらる」
という格好で慰(なぐさ)み者と扱われます。
「十に九人、娼(婦)となりて、名節を失い、身もまた亡ぶ」
「辛うじて妓楼(ぎろう)を出ても、即ち鬼籍(きせき)に上る」
例え、生きて洗衣院を出ても、過酷な待遇で力尽きる者がほとんどであり、身を憂(うれ)いて自殺する者が後を絶たなかったようです。
特に皇室に連なる皇女らは特に辱められており、柔福帝姫(じゅふくていき)や趙富金(ちょうふきん)、鄆王趙楷の妃の朱鳳英(しゅほうえい)、高宗の妃の憲節皇后(けんせつこうごう)らに至っては流産させられた挙句、洗衣院で高値で売られるという扱いを受けています。
また、逸話によると現地人の鍛冶屋が洗衣院を訪れ、このように語っています。
「八金を以って娼婦を買う、すると実に親王女孫(皇族の孫娘)、相国姪婦(宰相の甥の嫁)、進士夫人(科挙合格者の妻)なり」
欽宗皇后仁懐皇后(じんかいこうごう)などは、この境遇に耐え切れず入水自殺にて命を絶っており、その悲惨さを物語っています。
幸い、徽宗の9男である高宗(こうそう)は、援軍要請のため開封外にいたため脱出に成功し、南京にて皇帝に即位し南宋(なんそう)を建国します。
その後、1142年に南宋と金の間に紹興の和議(しょうこうのわぎ)が結ばれ、数人の皇女らは返還されました。高宗の母である顕仁皇后(けんじんこうごう)は63歳となり、80歳にて南宋の地にて世を去ります。
国家滅亡に伴う、女性たちの悲劇についてご紹介いたしました。
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