「九龍城砦(きゅうりゅうじょうさい)」とは、かつて香港に存在した城塞、およびその跡地に建設されたスラム街の名称だ。
日本では九龍城(クーロンじょう)という呼称で知られている。混沌を絵に描いたような無法地帯といった印象が強く、現在でもマンガやアニメ、ゲームなど様々な創作物のモチーフとして扱われている。
しかし2024年現在、九龍城砦は存在していない。
香港の中国返還をきっかけに、1993年から1994年にかけて取り壊し工事が行われ、その跡地はかつての面影を微塵も感じさせない緑豊かな公園となっている。
取り壊しから30年もの時が経っているにもかかわらず、人々が在りし日の九龍城砦に魅了され、その面影を追い求めてしまうのは何故なのだろうか。
今回は「世界最凶の無法都市」「東洋の魔窟」として名を馳せた巨大スラム、「九龍城砦」の歴史や魅力について触れていきたい。
九龍城砦の成り立ち
スラム街としての九龍城砦が形成される以前、九龍城地区には「九龍寨」(きゅうりゅうさい)という軍事要塞があった。
九龍寨の起源は、宋王朝時代(960~1279)までさかのぼる。
良質な香木や塩の産地であった香港は、古くから中国の貿易の要所であったが、当時香港付近の海域では海賊による被害が頻発しており、香港周辺の安全確保のために九龍半島に軍事要塞が設置された。
1668年には九龍烽火台が設置され、その後1800年代に至るまで、九龍寨は海賊や他国の侵略を阻む要塞としての役割を果たしていた。
しかし1841年以降、九龍寨を取り巻く状況は大きく変化していく。
清国がアヘン戦争で敗北したことによりイギリスとの間で南京条約が締結され、香港島が割譲されたのだ。九龍寨にはイギリスの侵略を防ぐための城壁や砲台が築かれ「九龍寨城」と呼ばれるようになった。
清国は、その後に勃発したアロー戦争でも敗北し、北京条約により界限街以南の九龍半島が割譲された。この時点で、九龍寨城はイギリス領近くの清国領内に位置していた。
1898年、香港防衛を理由として、イギリスが香港周辺の200あまりの島々を租借地とした。九龍寨城があった新界地区も租借の対象だったが、九龍寨城だけは租借地から除外され、清国の飛び地となった。
だが後に、九龍寨城に駐留していた清軍や官吏もイギリスの圧力によって排除され、以後、九龍寨城は事実上管理する国が無い不管理地帯となってしまったのである。
1912年1月には中華民国が樹立し、翌月2月に宣統帝・愛新覚羅溥儀が退位して清朝は滅亡、九龍寨城は本来の軍事要塞としての機能を失う。
九龍寨城の管理権については、中華民国とイギリスの間で交渉が行われたが決着がつかず、膠着状態となった。
1941年に入ると香港は日本軍に占領され、九龍寨城の城壁は近隣の空港の拡張工事の資材調達のために取り壊されてしまう。
終戦後、再びイギリスの植民地となった香港に、中国国民党と中国共産党の内戦激化による難民が流れ込んでいった。そして、どの勢力の主権も及ばない九龍寨城跡地に住み着くようになっていったのだ。
増築を重ね続けた九龍城砦の構造
1950年代になると、九龍寨城跡地に難民の手によって次々とバラックが建設され始めた。
1960年代後半からは、文化大革命から逃れる難民でさらに人口が劇的に増加し、過密状態となる。
「九龍城砦」と呼ばれるようになった難民居住区では、居住空間を増やすために無謀かつ無計画な増築が重ねられ、大規模なスラムが形成されていった。
とはいえ、行政もただスラムが出来上がっていくのを見守っていたわけではない。
何度も九龍城砦の取り壊しと強制退去の案が浮上したが、たとえ住処を焼き払われても、住民たちが九龍城砦から素直に立ち退くことはなかった。
1960年代後半から1970年代にかけては、火災を防ぐために鉄筋コンクリート造のペンシルビルに建て替えられたが、45m以下という高さ制限だけを守りつつ、相変わらず無計画な増築が繰り返された。
水が手に入りにくい土地ゆえに、コンクリートの錬成には人間の尿を使うこともあった。
やがて九龍城砦は「1度入ったら出られない」と評されるまでに膨れ上がった。
内部の街路は迷路のように複雑に入り組み、住民たちの手によって違法に電線や電話線などが張り巡らされた。高さ制限だけが順守されたのは、近隣の啓徳空港から離着陸する飛行機に建物が接触する可能性があったからだとされている。
取り壊し直前の1990年代初頭の九龍城砦では、約200m×120~150m、敷地面積26,000平米に建てられた違法建築ビルの中に、約5万人もの人々が住んでいたという。
これを人口密度として表すと約190万人/km2で、1畳につき3人の計算となる。つまり最盛期の九龍城砦では、東京ドーム約半分の敷地に、法に縛られない5万人の人間が暮らしていたのだ。
内部には日光が入らないため一日中暗く、一応は香港行政によって電気や上下水道などのインフラが導入されていたものの、人口に対しては到底不十分だった。
暗く混沌とした通路にはいつも汚水が滴っており、床はぬるつき異臭が漂っていたという。
九龍城砦内は国の法律が及ばない無法地帯であったため、無認可の歯科医院や不衛生な環境下での食品製造、コピー商品や海賊版出版物の製造販売など、違法な店や企業がひしめき合っていた。
しかし、住民たちは協力し合って自治体制を組んでおり、自警団も存在し、治安は比較的悪くはなかったといわれる。
乱立するペンシルビル群に囲まれた日当たりの良い中央部には、要塞時代の兵舎や執務室を利用した老人ホームや幼稚園、小中学校に相当する教育施設が設置され、日曜日になれば教会の役割も果たしていた。
取り壊し~現在の姿
1984年、英中共同声明調印により、香港が当初の期限通り99年の時を経て、1997年7月11日に中華人民共和国に返還されることが決定した。
それに伴い1987年に九龍城砦を取り壊す方針が発表されたが、住民たちの反対の声は大きかった。
そして1993年3月、度重なる交渉と退去要請の末に、最後まで退去を拒んだ元住民の怒声が響き渡る中で、解体工事が始まった。
約1年をかけて取り壊された九龍城砦の跡地には、清王朝時代の庭園をモデルにした「九龍寨城公園」が造成され、かつての混沌とした巨大スラムは見る影も無くなった。
九龍寨城公園内には、かつて九龍城砦の老人ホームとして利用されていた兵舎を流用して、九龍城砦の歴史的遺物や資料を展示する資料館が設けられた。
1998年には啓徳空港も移転され、現在の九龍城地区は賑やかな商店街を中心とする、閑静な住宅街となっている。
九龍城砦は、なぜ人々を魅了し続けるのか
生き物のように成長し続けた九龍城砦は、その姿形こそ失われたものの、時の流れと共にフィクションの世界で人々を魅了するコンテンツへと姿を変えていった。
特に昭和後期から平成初期の日本人にとっての香港は、東洋と西洋の文化が入り混じった混沌の先進都市であり、さらに九龍城砦は無法地帯だったからこそ好奇心をかき立てられたのだろう。
令和の時代においても、「清潔なもの、整ったもの、合法なものこそ正義」という価値観を窮屈に感じる人間にとっては、九龍城砦の支離滅裂ぶりは魅力的に映るかもしれない。
日本の九龍城砦
日本においても「日本の九龍城砦」と呼ばれる、もしくは呼ばれた場所は、廃墟を含めていくつか存在していた。
その中でも、2019年11月17日に閉店してしまったウェアハウス川崎店(神奈川県川崎市)は、九龍城砦をモチーフに作られた日本唯一のアミューズメントパークだった。
現在では、九龍城砦の雰囲気をリアルで体感できる施設はなかなか見当たらないが、ゲームや映像作品、書籍の中でなら味わうことができるだろう。
「混沌の世界」を楽しみたくなった時は、架空の九龍城砦が与えてくれる非日常感を体感してみてはいかがだろうか。
参考文献 :
吉田 一郎 (監修), グレッグ・ジラード (写真), イアン・ランボット (写真), 尾原 美保 (翻訳)
『九龍城探訪 魔窟で暮らす人々 – City of Darkness』
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