「無双」という言葉が相応しい男 張遼
人材コレクターとも称される曹操のもとには、多くの名将が集まり、魏は三国時代最強の勢力を築き上げた。
「魏で最強の武将は誰か?」と問われれば、意見は分かれるだろう。だが、筆者の視点で最もふさわしい一人を挙げるなら、それは張遼(ちょうりょう)である。
もちろん、魏には張遼以外にも数多くの名将が存在し、それぞれに輝かしい活躍を残している。しかし、『正史』において、張遼の「リアル三國無双」とも言うべき武勲を超える武将を即座に挙げるのは容易ではない。
今回は、まさに「無双」という言葉が最もふさわしい名将・張遼の生涯を振り返る。
安住の地を得るまで
前漢の資産家である聶壱(じょういつ)の子孫と言われる張遼は、地方の役人としてキャリアをスタートさせると、并州刺史の丁原にその武勇を見出だされ、本格的に戦乱の世に参戦する。
なお、曹操と出会うまでの張遼の足跡だが、丁原が呂布に討たれた後に呂布とともに董卓の配下となり、さらに董卓が呂布に討たれると呂布に仕えるなど、主君を転々としていた。この時期の張遼は、一部の官職に就いた記録はあるものの、大規模な戦功を挙げた記録は確認できない。
呂布の死によって旧呂布軍が曹操に吸収されると、張遼は曹操の配下となる。
余談だが、小説の『三国志演義』では、死の間際まで命乞いした呂布を一喝し、自身も死を覚悟するも、張遼の武勇を惜しんだ関羽の嘆願によって命を助けられ、この時の恩と友情が後の関羽の降伏に繋がるが、これはフィクションである。
関羽と張遼
曹操に仕える事になった張遼は、白馬の戦い(曹操vs袁紹 官渡の戦いの前哨戦)で、同じく曹操に降伏したばかりの関羽とともに先鋒を務める。
関羽と張遼の史実における関係とは【三国志正史】
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/36636/
関羽と張遼の詳しい関係は過去の記事を参照いただきたいが、白馬の戦いは関羽が有名な武将を討ち取ったほぼ唯一の戦いだが、新入り仲間という事もあり、この戦いの中で関羽と張遼は仲を深めた事は容易に想像出来る。
名場面の元ネタ?
関羽が曹操の元を離れた後の、官渡の戦いに於ける張遼の活躍は特に書かれていないが、官渡の戦いの勝利を喜ぶ暇もなく、今度は昌豨(しょうき)という人物が反乱を起こす。
張遼は夏侯淵とともに鎮圧にあたり、昌豨を包囲するが、攻め落とす事は出来ず鎮圧までには至らなかった。
この昌豨は後に処刑されるまで反乱と降伏を繰り返す事になるが、張遼は降伏するよう説得するため、自ら昌豨の元に赴き、使者としての任務を成功させる。
その後、張遼は昌豨の自宅を訪れ、昌豨の家族に挨拶をしている。
この話にはちょっとした後日談があり、張遼は曹操の元に昌豨を連れて来るが、ここで曹操は張遼に対して「これは大将のやり方ではない」と厳しい言葉を掛けている。
一番手柄である張遼を、曹操は何故咎めたのか。史書には具体的な理由が記されていないため、解釈の余地がある。
一つの可能性として、張遼が使者を立てず、自ら丸腰で敵の本陣に赴いたことが挙げられる。昌豨にとっては、仮に張遼を殺害すれば曹操の報復を招くのは明白であり、降伏以外の選択肢はなかったとも考えられるが、それでも大将自ら無防備に敵陣へ赴く行為は、慎重さを欠いたものと見なされたのかもしれない。
また、張遼の行動が独断専行と見なされた可能性もあるが、彼は夏侯淵と相談し、許可を得た上で昌豨の説得に向かっているため、完全な独断とは言い難い。さらに、昌豨の降伏後にその家族へ挨拶をしたことが問題視された可能性もある。
降将の家族に対して過度に親しげな態度を取ることは、軍の規律や将としての威厳に影響を与えると曹操は判断したのかもしれない。
張遼の自信は一歩間違えたら無謀とも取れるものだが、このエピソードから『三国志演義』の「あの」名場面が浮かぶ方も多いだろう。
それは、関羽が曹操のもとを離れようとした際、張遼が単身で説得に向かい、最終的に関羽を降伏させる場面である。
張遼は名ネゴシエーター?
『三国志演義』では、張遼が関羽を説得したことが彼の功績の一つとして描かれているが、『正史』ではそのような記述はない。
しかし、昌豨を単身で説得した実際のエピソードを見ると、張遼には優れた交渉能力と大胆な行動力があったことが分かる。
単身で敵のもとに乗り込む胆力は、まさに交渉人(ネゴシエーター)としての資質を持っていた証といえるだろう。
もし時代が違えば、張遼は武勇だけでなく、交渉術を駆使する名ネゴシエーターとして活躍していたかもしれない。
最高のチームで合肥を守る
いよいよ「リアル三國無双」こと、合肥の戦い(魏vs呉)を振り返るが
張遼の活躍は過去に書いているため、詳しくは過去の記事を参照いただくとして、
張遼の異常な武力と合肥の戦い【正史の方が活躍していた】
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/36417/
ここでは、「リアル三國無双」とも称される合肥の戦いが成功した理由の一端を考察する。
張遼の活躍が突出していたのは間違いないが、彼一人の力だけで勝利を収めたわけではなく、裏方の支えも重要な要素だった。
合肥の防衛には張遼、李典、楽進の三将が当たっていたが、彼らは元々意見の違いがあり、必ずしも良好な関係ではなかった。
しかし、曹操の采配によって配置されたこの三人は、不仲でありながらも、足の引っ張り合いや私情を挟むことなく、それぞれの役割を全うした。
李典と楽進の功績は、張遼の派手な活躍の陰に隠れがちだが、彼らの的確な判断と行動が合肥防衛の成功に大きく貢献したといえるだろう。
仮にこのうち誰かが役目を果たさず、内部で対立が生じていれば、合肥防衛は成立しなかったはずである。
最終的に張遼の武勇が際立つ結果となったが、実際には張遼、李典、楽進がそれぞれの任務を全うし、一丸となって戦ったからこそ、この戦いは成功したのである。
最後まで無双し続けた最強の男
張遼は222年に54歳(58歳説もあり)で病没したが、死の直前まで最前線に立ち続けた。
戦場で命を落とすのではなく、床の上で生涯を終えたことは、武将としては幸運だったといえるだろう。
その生涯を振り返ると、張遼は周囲と意見が対立することはあっても、大きな敵を作ることはなかった。数多くの逸話が伝わっているが、彼の名声を損なうような話はほとんど見当たらない。まさに非の打ちどころのない名将であった。
『正史』の関羽は気難しく誇り高い人物として知られるが、張遼はそんな関羽とも打ち解けている。
また、不仲だった李典や楽進とも、合肥の防衛戦では協力し、共に戦ったことから、異なる意見の者とも折り合いをつける柔軟な人間性を持っていたことがうかがえる。
また、曹丕は張遼を厚遇し、221年に洛陽へ入ると、彼のために邸宅を建て、母のために御殿を造るほど優遇した。曹丕は合肥の戦いでの張遼の活躍を興味深く語り、張遼が率いた精鋭たちを近衛兵として取り立てるなど、功績を称えている。
残念ながら張遼は病気となり、翌年にこの世を去るが、曹丕は名医の治療を受けさせるため病床の張遼を呼び寄せ、一時は戦場に戻れるまで回復した。
死の直前まで張遼は戦場に立ち、病床の身でも孫権に恐怖を与え、またも呉を撃退する相変わらずの無双ぶりだった。
彼の早すぎる死は惜しまれるが、武勇・人格ともに優れ、最期の瞬間まで戦い続けた張遼は、まさに三国時代屈指の名将だったといえるだろう。
参考 : 『正史 三国志』『三国志演義』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部
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