三国時代には、諸葛亮や司馬懿といった名軍師が数多く登場する。
彼らは知略を駆使し、戦乱の世を生き抜いた。
しかし、その中には「奸智の士」とも「知略の賢者」とも呼ばれ、評価が大きく分かれる人物がいる。
その名は賈詡(かく)。
今回は賈詡の真の姿を、史料をもとに紐解いていきたい。
乱世に現れた異才

画像 : 清代の書物に描かれた賈詡 public domain
賈詡(かく)は、後漢末期の涼州武威郡姑臧県(現在の甘粛省武威市)に生まれた。字は文和(ぶんわ)という。
名門の出身ではなく、若い頃はほとんど評価されることがなかったが、その才能を見抜く者はいた。
漢陽の閻忠(えんちゅう)は、賈詡を「張良や陳平のような智謀の持ち主」と評していたという。
彼は若くして孝廉に推挙され、漢王朝の役人として仕えることになった。
しかし、持病があったため職を辞し、故郷へ戻ろうとしたが、その途中で予期せぬ試練に直面した。
氐族(ていぞく : 中国西部に居住した少数民族)の集団に捕らえられ、同行していた者たちが皆殺しにされてしまったのである。
ここで賈詡は冷静に機転を利かせた。
彼は自らを太尉・段熲(だんけい)の親族と偽り、「もし私を殺すなら、必ず丁重に葬ってほしい。そうすれば我が家が遺体を手厚く引き取るだろう」と遠回しに脅しをかけたのだ。氐族は驚き、彼を解放したという。
この逸話からも分かるように、賈詡は若い頃から巧みな弁舌と状況判断に長けていた。ただの知識人ではなく、実際の危機に直面しても臨機応変に対処できる智謀の持ち主だったのである。
賈詡の転機
賈詡の人生が大きく動き出したのは、董卓が洛陽を制圧した時期である。

画像 : 日本でも古くから暴虐不遜の代名詞だった董卓。 public domain
彼は董卓の配下となり、太尉掾・平津都尉・討虜校尉といった官職を歴任し、董卓の養子である牛輔の軍に加わった。
しかし、董卓が呂布によって殺害され、牛輔も討たれると、賈詡は自身の身の振り方を考えねばならなくなった。
この時、董卓の旧臣であった李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは軍を解散し、それぞれ逃亡しようと考えていた。
そこで賈詡は彼らに進言する。
詡曰:聞長安中議欲盡誅涼州人,而諸君棄衆單行,即一亭長能束君矣。不如率衆而西,所在收兵,以攻長安,爲董公報仇,幸而事濟,奉國家以征天下,若不濟,走未後也。
意訳 : 長安では涼州出身者を排除しようという動きがあると聞く。このまま軍を棄てて逃げれば、たとえ小さな亭長でもお前たちを捕らえることができるだろう。しかし、もし軍を再編し、長安を攻めて董公(董卓)の仇を討てば、形勢は逆転する。
成功すれば天子を奉じて天下を征することも可能だ。万が一失敗しても、その時に逃げればよい。『正史 三國志』 魏書·荀彧荀攸賈詡傳より引用

画像 : 李傕と郭汜 public domain
李傕・郭汜らは賈詡の進言を受け入れ、軍を再編して長安へ進軍した。
その結果、呂布を敗走させ、王允を殺害し、再び長安の支配権を奪取することに成功した。
賈詡の助言は、彼らにとって決定的なものとなったのだ。
長安奪還後、賈詡は左馮翊に任命され、李傕・郭汜政権の中枢に加わった。さらに尚書に任じられて人事を担当するなど、重要な役職を歴任する。
しかし、李傕と郭汜の対立が次第に激化し、ついには武力衝突へと発展する。
この争いを止めるため、賈詡はたびたび諫言したが、事態は収まらなかった。
やがて長安の混乱が決定的となり、献帝は長安を脱出する。
賈詡は政権崩壊を悟り、李傕らに印綬を返上すると、同郡の段煨(だんかい)の元へ一時身を寄せた。
しかし、段煨は賈詡の知略を警戒し、彼を厚遇しつつも信用しなかった。
そこで賈詡は南陽の張繡(ちょうしゅう)に接触し、新たな主君を求めることとなる。
張繡と曹操の対決

画像 : 清代の書物に描かれた張繡(ちょうしゅう) public domain
こうして賈詡は張繡に仕えたが、建安2年(197年)、曹操が南陽へ侵攻し、張繡は降伏せざるを得なくなった。
しかし、曹操が張繡の叔父・張済の未亡人を側室に迎えたことで、張繡は強い不満を抱いた。
賈詡はこの状況を利用し、曹操軍を欺いて奇襲を仕掛ける策を提案する。
まず、賈詡は曹操から「張繡軍が陣営を通過する許可」を得た上で、曹操軍の警戒を解かせた。そして夜襲を決行したのである。
奇襲を受けた曹操軍は大混乱に陥り、曹操の長男・曹昂や、曹安民・典韋が戦死するという大損害を被った。
この戦いは、曹操の生涯の中でも数少ない大敗の一つとして記録されている。
しかし、賈詡はこのまま曹操と敵対し続けることが最善策とは考えなかった。
建安4年(199年)、曹操と袁紹が対峙し始めると、袁紹は張繡を味方につけようとした。
張繡は当初これに応じようとしたが、なんと賈詡は「曹操に降伏すべき」と進言した。
その理由は以下の通りである。
・曹操が天子を擁しており、正統な権威を持っている。
・張繡のような弱小勢力にとっては、曹操の庇護を受けた方が有利。
・曹操は天下統一を目指す人物であり、敵を取り込むことで自身の寛容さを示そうとする。
張繡は賈詡の意見に従い、曹操に降伏した。
曹操は息子を殺されたにもかかわらず張繡を厚遇し、賈詡を執金吾に任命した。
賈詡の決断は単なる保身ではなく、情勢を冷静に分析した上で導き出されたものであった。
賈詡の数々の献策

画像 : 曹操 public domain
以後、賈詡は曹操の重要な参謀として活躍し、数々の戦略を献策することになる。
200年の官渡の戦いでは、袁紹軍の許攸が曹操に投降し、烏巣にある袁紹軍の兵糧庫が手薄であることを告げた。
曹操の幕僚の多くはこれを疑ったが、賈詡は荀攸とともに「これは絶好の機会だ」と進言し、曹操を説得した。
その結果、曹操は自ら奇襲を指揮し、烏巣を焼き払うことで袁紹軍に壊滅的な打撃を与えた。この勝利は、官渡の戦いを決定づけた大きな要因となった。
211年、馬超・韓遂の連合軍と曹操軍が潼関で対峙した際、賈詡は「離間の計」を用いることで敵軍を内部から崩壊させた。
彼は曹操に、韓遂へ親しげな態度を見せるように指示し、これによって馬超は韓遂に疑念を抱くようになった。
こうして馬超と韓遂は仲違いし、曹操はほぼ戦わずして勝利を収めた。
その後、曹操の後継者問題が浮上すると、賈詡は「袁紹と劉表の事を思い出していました」とだけ述べた。
これは、袁紹も劉表も長子以外を後継者に選び、結果として家が滅んだことを示唆するものであった。
曹操はこれを聞いて大いに笑い、正式に嫡子の曹丕を後継者と定めた。
このように、賈詡は単なる戦略家ではなく、政治的な判断にも長けていたことが分かる。

※画像 : 曹丕 public domain
220年に曹丕が魏王となると、賈詡は太尉に任命されるが、この栄誉を辞退しようとした。
しかし、曹丕は賈詡の功績を認め、固く推挙したため、仕方なく太尉の職を受けた。
その後、賈詡は権力争いに巻き込まれないよう慎重に振る舞い、私的な交際を避け、静かに晩年を過ごしたという。
223年、77歳で病死し、粛侯の諡号を贈られた。
賈詡は本当に冷酷な軍師だったのか?

画像 : 賈詡の肖像画 wiki © Boyswsx000
賈詡が「冷酷」とされる要因の一つに、先述した李傕・郭汜を扇動して長安を襲撃させた件がある。
賈詡は「涼州人が皆殺しにされる」と彼らに警告し、反乱を引き起こさせた。
この策略により長安は大混乱に陥り、多くの民が犠牲となった。結果として、賈詡は「奸智の士」としての評価を受けることになった。
また、馬超と韓遂への「仲間を裏切らせて潰す離間計」は、冷酷そのものであろう。
曹操に対しても、息子を討っておきながらすぐに恭順するなど、常人の感覚では考えにくいものであり、サイコパス的な一面すら感じられる。
しかし、賈詡の行動を単に「冷酷」と断じるのは早計である。
彼は三国時代の軍師の中でも、数少ない「最後まで生き延びた人物」であった。
賈詡はあくまで生き残ることを最優先にし、時の権力者に仕えながらも深入りせず、猜疑心を抱かれないよう慎重に振る舞い続けた。
このような用心深さこそが「知略の賢者」とも評される理由である。
賈詡は善悪や感情に左右されない徹底的な「現実主義者」だったといえよう。
最後まで生き延びた賈詡の姿こそ、乱世の軍師の一つの理想形だったのかもしれない。
参考 :『三国志』魏書・荀彧荀攸賈詡伝
文 / 草の実堂編集部
楽しく拝読しました。三国志には様々な智者が登場しますが賈詡を取り上げる記事を殆ど目にした事が無かったのでとても興味深かった。今回あらためて(我が子を討ち取った敵までも、その才を見出し重用するほどの)人材コレクター曹操の感性に驚かされるとともに、だからこそ賈詡が後世に語り継がれ、その生き様から色々と考えさせられ、学ばせてもらえる。
良い記事に出会えた事に感謝です。
ありがとうございます!
今後も、他があまり取り上げない比較的ニッチな人物の記事を作っていきますので、またお時間のあるときに覗いていただけたら幸いです。