「人の心理まで巧みに使う」
「三国志」に見られる計略は「兵法三十六計」を元にしているものが多く見られる。
「勝戦計」「敵戦計」「攻戦計」「混戦計」「敗戦計」は戦いの主導権を握っている場合から、圧倒的不利な状況までの対処法が書かれている。
「三国志」においては、過剰な脚色が加えられているものもしばしば見られるが、基本は「兵法三十六計」である。代表的なものをいくつか調べてみた。
智将達のスゴイ計略のあれこれ
苦肉の計【赤壁の戦い】
呉:黄蓋
「害は必ず他人から受けるもので、自らが自らを害するという事はない。その為、害された者は信用できる」という、人の気持ちを逆手に取る『心理戦』を策にしたもの。
【赤壁の戦いにおいて、呉の老将:黄蓋が自軍の大将軍である周瑜に苦言を呈した事から、周瑜から罰を受け、それを理由に曹操軍に寝返る・・と見せかけて油断した曹操に火計を仕掛けると言うもの。
「正史」では黄蓋の偽りの降伏はあるものの、「苦肉の策」は記されていない。
十面埋伏の計(じゅめんまいふくのけい)【倉亭の戦い】
魏:程昱(ていいく)
官渡では曹操に大敗した袁紹だったが、袁紹は有能な息子達の軍と合流し、再び曹操軍へと襲いかかった。
程昱は10隊の伏兵と、囮部隊で敵を攻撃した。隊を右に5隊・左に5隊に分け、伏兵として潜ませておき、別の先鋒隊が囮となって敵を誘い込んだ所を、その伏兵達が順に繰り出し、敵を攻撃するというゲリラ戦法である。
これは「三国志演義」の中だけに登場する計略で、「正史」では見られない。
二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)【呂布討伐計画】
魏:荀彧(じゅんいく)
曹操が董卓を倒した後、董卓配下で曹操が最も恐れた武人「呂布」は劉備の元に身を寄せていた。
この二人が手を結ぶ事を恐れた曹操は軍師「荀彧」の「二虎競食の計」を採用する。曹操は天子に許しを乞い、劉備を正式に「徐州の太守」に命じ、それに伴い「呂布討伐」の密命を下す。あわよくば「共倒れ」を願ったものの、劉備は曹操の計画に気づき、この作戦は失敗に終わる。
この計も「三国志演義」にだけ見られる演出である。
駆虎呑狼の計(くこどんろうのけい)【呂布討伐計画その2】
魏:荀彧
「二虎競食の計」に失敗した荀彧は、今度は「袁術(えんじゅつ)」も加え、呂布・劉備・袁術の三人が戦い三者がダメージを受けるという計略。
途中まで上手くいっていたが、徐州を巡る「呂布・劉備」は和解。徐州で孤立する事を恐れた呂布は「袁術・劉備」が和解するよう、自身から150歩の所に戟(げき:長い柄を持つ武器で柄と直角に小刀を付けた武器)を掲げさせ「どうだろう。ここから弓で戟を一発で射当てたなら、兵を引いてくれまいか?」と言った後、見事命中させた。そして兵は撤退。これも「三国志演義」の創作である。
八門金鎖の陣(はちもんきんさのじん)【新野戦】
蜀:劉備 VS 魏:曹仁
八門金鎖の陣
前衛:「死門」「驚門」「開門」
中間:「景門」 「休門」
後衛:「杜門」「傷門」「生門」
新野戦まで劉備は活躍する場に恵まれず、そこに名士:徐庶(じょしょ)が現われた。
徐庶は劉備に「諸葛亮」を紹介した人物としか「正史」では書かれていない。「三国志演義」では「八門金鎖の陣」を破ったエピソードが綴られている。これが「演義」否「三国志」の魅力なのだ。
新野に駐屯していた劉備軍に曹操軍が仕掛けるが、先鋒は劉備軍に撃破されてしまう。そして曹操は「八門金鎖の陣」を布き「我が軍の陣形が解るか!」と劉備を挑発。そして徐庶が、高所に登り「弱点」を見つけ、趙雲に伝令を送り500の軍で東南から突入、そのまま西へ動かし、弱点をつかれた曹操軍は撤退。
この「三国志演義」のエピソードから「徐庶」は天才軍師として後世の記憶に残る様になったのである。これこそ「演義」のオモシロさである。
「三国志演義」の元になった「三国志平話」
中国では宋代には「説三分」と呼ばれる三国志語りが人気であった。
元代になると、挿絵入りの三国志である「三国志平話」が流行し、諸葛亮は術を使って風を起し、雨を降らせ、民衆の願望を叶えてくれる『神仙』とされた。諸葛亮の神格化の頂点はこの「三国志平話」にある。
『三国志平話』の諸葛亮は、そのまま『三国志演義』の諸葛亮のモデルとなった。
赤壁で東南の風を呼んだシーンが有名である。蜀漢を正統とする『演義』では、とにかくどの戦いでも諸葛亮の手柄になる様に設定が作り替えられ、様々な人物が諸葛亮に活躍のシーンを奪われるほどだ。負けたシーンでも、罠を仕掛けたり『諸葛亮』は大活躍する。
「正史:三国志」の著者:陳寿(ちんじゅ)は曹魏を正統化としつつも、自らは蜀漢の出身であったため、諸葛亮を「忠臣」として伝えた。諸葛亮は「水魚の交わり」を持って劉備に仕え、劉備亡き後は息子の「劉禅(りゅうぜん)」を補佐し、劉備の遺志を継いで北伐を行い、蜀の為に亡くなる。
この忠臣としての諸葛亮は『演義』が成立した明・清代には劉備への忠義にあふれる理想の武将としての像を確立する。忠義の諸葛亮像は日本にも伝えられ、戦時中には「忠臣愛国」の思想に宣揚される事もあった。
吉川栄治の『三国志』では、悲劇の英雄としてのスパイスも加わった。こうした伝説とも相まって、中国でも日本でも「諸葛亮」は絶大な人気を誇る人物となったのだった。
武経七書
中国の武家の代表的古典は「武経七書(ぶきょうしちしょ)」と呼ばれる7つの兵法書である。
古代中国では、軍略や政略を説く兵法家(兵家)が存在し、その軍学・兵学を著した書を残した。大勢の兵士達がいる軍を上手く運営しなければ、戦に勝ち抜いていく事が出来なかったからである。中でも『孫子』が最も優れているとされ、三国志にも『孫子』に見られる戦術が数多く見られる。
いくつか代表的な兵法書を紹介する。
『孫子』現存13篇
紀元前500年頃、孫武によって原型が著され、後継者達によって加筆されたと考えられているため成立時期には諸説ある。曹操が当時流布していたものを整理し、注釈を加えたものが広く読まれる様になる。
『呉子(ごし)』現存6篇
春秋戦国時代の呉起(ごき)が著したとされるが定かでない。『孫子』と並んで評される。
『司馬法(しばほう)』現存5篇
春秋戦国時代の斉(せい)の大司馬、田穣苴(でんじょうしょ)が書いたとされる。
『尉繚子(うつりょうし)』現存5巻24篇
戦国時代に尉繚によって書かれたとされる。
~略~
「武経七書」を読み兵法や策略を練った軍師達。『三国志演義』で描かれた名戦略は、創作によるものも多いが、当時の兵法のオモシロさを凝縮させ、三国志を愛される作品にしたのは、その様々な作戦にある。
史実であるかないかを問わず、三国志の面白さをじっくり味わいたいものである。
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