袁紹の死と袁家の滅亡
三国時代の202年、次世代の天下人と目された当代屈指の英雄、袁紹(えんしょう)がこの世を去る。
官渡の戦いでは曹操を撤退寸前まで追い詰め、天下に手が届くところまで来ていた男の死によって、官渡の戦いの勝者である曹操が覇権を握ると思われたが、依然として袁家の力は強大であり、袁紹の死後も曹操は簡単に手を出せる状態ではなかった。
言い換えれば、袁紹の息子達が三人力を合わせて纏まっていれば、袁紹に代わって天下を取るチャンスは十分にあった。
しかし、残念ながら父親同様、袁紹の息子達も天下を取る事は出来ず、袁紹一族は滅亡してしまう。
今回は、後漢屈指の名門として名を轟かせた袁家の滅亡までの流れを辿る。
泥沼の後継者争い
袁紹の死語、真っ先に持ち上がったのは後継者問題だった。
袁紹には袁譚(えんたん)、袁煕(えんき)、袁尚(えんしょう)という三人の息子がいたが、袁紹が最も寵愛していたのは長男の袁譚ではなく、三男の袁尚だった。
正史の記述を見ても武勇に優れていて美貌の持ち主だったとあるだけで大した実績はなく、袁尚も決して優秀だったとは思えないが、袁譚はそれ以上に不出来な男であった。(どちらも目立った実績はないため正直なところ両者の能力的に大した差はなかっただろうが、後の行動を見ても袁譚は家督を継ぐに相応しい男ではなかった)
袁譚は公孫瓚(こうそんさん)配下の田階(でんかい)と孔融(こうゆう)の二人が統治していた青州に兵を出して奪い取ると、新たな刺使として統治するが、袁譚の統治は全く上手くいかずに荒れた土地を更に荒廃させるだけだった。
これだけが袁紹が袁譚を後継者に選ぼうとしなかった理由ではないが、その一方で袁尚を正式に後継者に指名した訳でもなかった。
結局、袁紹が後継者を明らかにしないままこの世を去ってしまったため、家臣も袁譚派と袁尚派に分裂してしまい、袁紹死後の袁家は泥沼の後継者争いが繰り広げられていた。(なお、次男の袁煕は袁尚側に着いていたが、その理由や自身が後継者になりたかったという意思の有無は一切不明である)
袁紹はなぜ後継者を指名しなかったのか?
これは正史三国志に「注」を入れた裴松之(はいしょうし)が当時の他の文献「九州春秋」から引用し説明している。
当時の袁紹軍のキレキレの軍師、沮授(そじゅ)が後継者を決めかねている袁紹にこう進言したという。
「一匹の兎が街路を疾駆すると万人がこれを追いかけるが、一人がこれを捕獲すれば貪欲な者もみな追いかけるのをやめる。持ち主が決定したからです。
そのあとはもめごとが起こらないという道理に思いをいたされますように」※正史三国志より引用 以下同様
この進言に対して袁紹は
「わしは四人の息子にそれぞれ一州を支配させ、それによって能力を考察したいと思う」
と返したそうだ。それを聞いて退出した沮授は
「禍いはここから始まるのか」
と嘆いたという。
後継者争いの結末
袁紹が後継者を明確にしないままこの世を去った事により、袁譚と袁尚の後継者争いは更に深刻なものになる。
先に動いたのは袁尚で、「自分こそが袁紹の後継者である」と主張して勝手に家を継いでしまう。
不仲だった両者の亀裂は決定的なものとなり、袁譚も挙兵して袁尚と対峙する。
当時の最大勢力であった袁家の分裂は曹操にとって願ってもない好機であり、二人が争っている隙を突いて兄弟を打ち破る。
さすがの袁譚と袁尚も曹操を相手に争っている場合ではないと、兄弟喧嘩を一時休止して曹操と戦うため協力する。
勝利の勢いのまま曹操はなおも攻撃を続けようとするが、郭嘉(かくか)からの「攻撃を続けて両者を団結させるよりも、放置して再度同士討ちをさせるべき」という進言を受けて撤退する。
郭嘉の読み通り、曹操がいなくなると袁譚と袁尚は兄弟喧嘩を再開する。
骨肉の争いは袁尚の有利のまま進み、旗色の悪くなった袁譚は恥も外聞も捨てて曹操に降伏してしまう。
名門袁家の滅亡
降伏という形で曹操を味方にした袁譚は、こともあろうか曹操に援軍を頼み袁尚の領地を奪って勢力を拡大する(時が来たら反乱するつもりだった)が、その目論見は曹操に見透かされており、勝手に領地を拡大した事を「約束違反」として袁譚は呆気なく殺されてしまう。
袁譚が滅ぼされると、曹操のターゲットは残る兄弟二人となる。
袁尚は袁煕とともに曹操と当たるが、袁譚との争いで著しく戦力が弱体化したため もはや曹操と対抗するだけの力は残っておらず、敗走を重ねて遼東の公孫康のところに落ち延びる。
公孫康にとって二人は曹操を招く「災厄」でしかなく、このまま殺して曹操に降伏しようと考える。
袁煕は自分達を歓迎する公孫康の態度に疑問を持つが、公孫康の軍を奪い取ろうと考えていた袁尚は袁煕の制止を聞かずに公孫康の歓待の宴に向かうが、やはり公孫康の歓待は罠であり、二人とも殺されてしまう。
袁紹の死から5年という長い歳月が掛かったが、後漢屈指の名門である袁家は後継者争いによって自ら弱体化を招き、呆気なく滅亡した。(袁煕の子供や袁術の家族は後世まで生き残っているため「滅亡」というのは厳密には誤りだが、袁家のトップであった袁紹の息子達は全員207年までに死亡しており、袁家の人間が天下を取る可能性は完全に潰えていた)
袁譚がまともであれば…
袁家の滅亡を招いた後継者争いだが、全ての元凶は長男の袁譚が不出来だった事に尽きる。
袁紹陣営を見ると父親の袁紹だけでなく、袁紹の配下も袁尚派が多かった。
少数派となった袁譚派は「長男だから」という儒教的な観点から消極的に支持しているだけであり、袁紹が「袁尚を後継者にする」と言えば(袁譚は面白くなかっただろうが)少なくともここまで袁家が乱れる事はなかった。
袁紹が長男の袁譚をはっきりと後継者に使命しなかった理由は、青州の統治に失敗した事に加え、袁家内部に自分の味方がいないと分かるや否やあっさりと曹操に降ってしまう人間性も袁紹に見抜かれていたと考えれば辻褄も合う。
一言で言ってしまうと袁譚は袁紹の親類である袁術のような「ダメ人間」であり、自身の能力に見合わない野心が自分と一族を滅ぼしたと考察できる。
ここまで来ると人材配置に専念して、適材適所の起用で配下を纏めていた蜀の劉備の息子、劉禅がまともに見えるレベルだが、袁譚が劉禅のように自分の能力に見合ったやり方が出来ていれば袁家及び中国の歴史は変わっていたかもしれない。
史実を見ると袁譚がまともな人間だった世界線も、袁尚に家督を譲って天下統一のため協力した世界線も想像出来ないが、官渡の戦い同様、袁家の後継者争いも何か一つが変わっていれば歴史が変わっていた可能性もある。
史実でも演義でもいいところなく終わっている袁紹の息子達だが、場合によっては袁紹の後を継いで天下を取れていたかもしれない、隠れた「天下人候補」だった。
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