三國志

董卓の最期【三国志正史と演義で大きく違う反董卓連合軍】

正史と演義で大きく違う反董卓連合軍

董卓の最期【三国志正史と演義で大きく違う反董卓連合軍】

※董卓

三国時代序盤の西暦190年、洛陽で暴政を行う董卓(とうたく)を滅ぼすべく各地で群雄が挙兵する。

当代随一の家柄を誇る袁紹を盟主として、いわゆる「反董卓連合」と呼ばれる連合軍が結成され、連合に加わったメンバーは勿論、董卓軍の呂布の活躍など当代の英雄達による「オールスター戦」は三国志ファンの間でも人気が高い。

だが、世間一般で知名度の高い虎牢関の戦いは演義によるフィクションであり、正史と演義では記述にかなりの温度差がある。

今回は、反董卓連合を正史と演義の両面から検証する。

関羽の活躍は実はフィクション

董卓の最期【三国志正史と演義で大きく違う反董卓連合軍】

※関羽雲長

反董卓連合で虎牢関の戦いに次いで浮かぶ名場面といえば、汜水関の戦いに於ける関羽の活躍である。

反董卓連合の各武将が董卓配下の猛将である華雄(かゆう)に苦戦する中、自分が華雄を討ち取ると申し出た関羽が、宣言通り華雄を一瞬で(曹操から出された酒が冷めないうちに)討ち取るシーンは演義の名場面である。

関羽の活躍は「軍神」と呼ぶに相応しい強さを見せ付けているが、正史には関羽の「か」の字もなく、汜水関の戦いは演義の創作である。

正史の華雄は孫堅伝に僅かな表記があるだけで、胡軫(こしん)配下の武将であった事と、陽人の戦いで孫堅軍に討ち取られて、晒し首にされたとしか書かれていない。

一言で言ってしまえば「モブ」扱いであり、これの何処が猛将なのかという疑問を抱くが、結論から述べると正史に於ける活躍が少ない関羽の見せ場を作るための「演出」であり、見方を変えると孫堅は自身の手柄を関羽に横取りされた事になる。

折角の功績を奪われた孫堅の立場で見ると気の毒以外の言葉はないが、華雄から見れば史実と違って活躍出来た上に、その活躍によってゲームでも優秀なステータスが与えられるなど優遇されているので、ある意味では演義によって「」をした武将である。

虎牢関の戦いの真実

董卓の最期【三国志正史と演義で大きく違う反董卓連合軍】

※虎牢関の戦いでの呂布と関羽

演義にあって正史にない名場面として有名なのは、虎牢関の戦いである。

劉備、関羽、張飛を相手に一歩も引かずに渡り合う、リアル「三國無双」と呼ぶに相応しい呂布の強さが際立つ名場面だが、汜水関の戦いと同じくこちらもフィクションである。

正史には連合軍に押されて戦況が不利になったため、董卓は洛陽を捨てて長安に逃げたとあるだけで、呂布が三国志最強と呼ぶに相応しい強さで無双したという記述もなければ、劉備達と三対一でやり合ったという記述もない。

ここまで来ると分かるように、虎牢関の戦いもフィクションであり、そもそも劉備達は反董卓連合に参加していない

191年当時の劉備は公孫瓚の元に身を寄せており、演義では公孫瓚の配下として反董卓連合に加わっているが、劉備達同様、公孫瓚も反董卓連合に参加していない。

正史を見ると一切反董卓連合に関与していない劉備達が参戦している理由だが、単純に演義の主人公格でありながら活躍の場面が少ない劉備達に、活躍の場を与えたかったからである。

正史を読むと反董卓連合結成から起きたいくつかの戦闘の結果と、董卓が洛陽を焼いて長安へ遷都したという事が簡潔に書かれているだけで、内容的には大した事は書かれていない。

読者としては物足りなく感じるが、創作側から見れば正史の記述がシンプルであればあるほどフィクションを挟む余地が生まれるため、単なるモブに過ぎなかった華雄が猛将として後世に名を残した他、呂布が三対一でも負けない鬼神のような強さを見せ付ける名場面が生まれる事になった。

反董卓連合の崩壊

戦況を優位に進め、董卓を洛陽から追い出す事に成功した反董卓連合だが、長安へと逃げた董卓を追撃せずに解散となっている。

それには袁紹と袁術が豫州を巡って仲違いしたという背景があり、実質的な空中分解であった。

また、反董卓連合という名前ではあったが、強大な董卓軍に恐れをなして積極的に当たろうとする者はほとんどおらず、組織としてまともに機能していなかった。

董卓の最期【三国志正史と演義で大きく違う反董卓連合軍】

※孫堅が洛陽の古井戸から玉璽を見つける図

そんな中で董卓軍を撃ち破った孫堅の功績はもっと認められるべきであり、思わぬ活躍の場を得た華雄とは逆に演義の「被害者」である。(なお、演義の孫堅は廃墟となった洛陽で玉璽を発見し、それを隠し持っていた事がきっかけとなって反董卓連合は内部分裂を起こして解散となる

連合に参加した群雄はそれぞれの本拠地に戻り、自身の領土を拡大するべく争う群雄割拠の時代となる。

反董卓連合解散後

反董卓連合相手に苦戦を強いられていた董卓だが、同族同士の喧嘩による空中分解という思わぬ結末によって危機を脱する。

長安を本拠地とした董卓は、悪質貨幣の大量生産から大インフレを起こすなど相変わらずの暴政を働き、世間を混乱に陥れる。

※李傕と郭汜の反乱により投身自殺する王允

当然、董卓の側近でもこれを快く思わない者は存在し、かねてから董卓の暴政を憎んでいた司徒の王允(おういん)は董卓の暗殺を計画する。

折しも、董卓の警護係として絶大な信頼を得ていた呂布も董卓との関係が悪くなっており、董卓による粛清を恐れた呂布は王允の計画に加担する。

192年4月、董卓が献帝の病気が快癒した事を祝うため宮中に呼び出された事を知った王允は、これを好機と計画の実行に移す。

宮中に向かっていた董卓は呂布によって殺され、中国全土を混乱に招いた梟雄はこの世を去るが、それで戦乱が収まるはずがなかった。

董卓暗殺の立役者であった王允も李傕、郭汜によって殺されるなど長安では混乱が続き、董卓がいなくなった事で各地の群雄に天下を狙うチャンスが生まれたため、群雄達による天下争いは更に激化するのであった。

 

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