三國志

【関羽と魯粛の会談】蜀と呉の戦を収拾した単刀赴会の真実

単刀赴会(たんとうふかい)とは

単刀赴会(たんとうふかい)とは

214年、劉備益州(えきしゅう)を奪取して念願だった自身の地盤となる領地を手に入れる。

しかし、それと同時に呉の孫権陣営と荊州(けいしゅう)の統治を巡る問題が発生する。

益州を手に入れる前の劉備は本拠地と呼べるものがなく、荊州は劉備が益州を手に入れるまで孫権から「借りる」という形で治めていた。

荊州を巡って劉備と孫権の間で交戦状態となった状況を収拾すべく関羽魯粛(ろしゅく)が会見し、最終的には劉備側が折れて長沙、桂陽、零陵の三郡を譲渡する事になる。

演義でも劉備は孫権に領地を譲渡しているが、この場面に於ける「敗者」であり、正史では出番の少ない関羽のために「単刀赴会(たんとうふかい : 刀単つで会に赴く)」という名馬面が作られている。

今回は、正史と演義の両面から単刀赴会を比較し、双方の描かれ方の違いと、キーパーソンになった魯粛の実像に迫る。

劉備が荊州を手に入れるまで

単刀赴会(たんとうふかい)とは

※劉備玄徳 wikiより

劉備孫権がここまで揉める事になったきっかけとして、まずは荊州の重要性から解説する。

荊州は中国の中央部にあり、立地的に見ると各地へ繋がる重要拠点だった。

また、益州(蜀)を狙っていた劉備から見ると、益州だけだと山岳地で攻める時に苦労するが、開けた土地である荊州を領有していれば攻撃の拠点として使う事が出来た(逆に言えば荊州を失ったら進攻ルートがなくなってしまう)ため、荊州は曹操や孫権以上に重要だった。

演義での劉備は、義の観点から劉表から荊州を譲ると言われても断り、正史でも劉表の死後に後を継いだ劉琮から荊州を奪ってしまうよう部下から進言されてもやはり却下している。

正史の劉備は演義とは違うリアリストとしての姿が描かれているため、今後の拠点を手に入れるチャンスを自ら捨てる事に疑問を感じるが、荊州は地元豪族の力が強く、統治するのが簡単ではなかった。

そして、劉表が亡くなった208年は曹操が荊州に進攻していた時期であり、領地を受け継いで曹操と当たろうもしても配下を纏められない状態では統治どころでなかった。

あくまで劉備に対して好意的な解釈になるが、劉表の死とともに荊州を受け継ぐのはタイミングとして適切ではなく、進攻する曹操軍からすぐに逃げている事から考えると、劉備の判断は正しかった。

その後、孫権と手を組んで赤壁の戦いで曹操軍を撃ち破ると、劉備は荊州を手に入れるために動き出す。

曹操が撤退した隙を突いて劉備は荊州の南部を手に入れると、劉表の長男である劉琦を荊州牧に立てる。

だが、病弱だった劉琦が程なくして病死したため、その後を劉備が継ぎ、回り道をしたもののようやく自分の拠点となる地盤を手に入れた。

荊州を巡る戦争勃発

荊州を手に入れてから劉備の快進撃は続き、214年には益州を手に入れて第三勢力としての立場を確固たるものにする。

ここまで順調に領地を拡大して来た劉備だが、第三勢力として劉備が躍進する事を恐れた孫権からの横槍が入る。

孫権は「赤壁の勝利は孫呉の力によるものである」と主張し、赤壁の戦いの「戦果」として劉備から割譲を迫る。

演義では「益州を取るまで荊州をお借りしたい」などあの手この手で孫権の追及をかわしているが、正史の劉備は益州を手に入れた後に「涼州を手に入れたら荊州を再分割する」という実現がほぼ不可能な条件を出し、堪忍袋の緒が切れた孫権がとうとう荊州に軍を出して、両者は交戦状態となってしまう。

戦闘の末に長沙、桂陽、零陵を奪われた劉備と関羽は領地を奪還すべく軍を出すが、戦況は膠着状態となる。

単刀赴会(たんとうふかい)とは

※魯粛(ろしゅく)

これ以上戦闘が続けば同盟を結んでいた劉備と孫権の関係が崩壊しかねなくなり、事態を収拾すべく魯粛と関羽の間での会談が行われる事になった。(戦闘から交渉へと話が進んだ一因として、曹操が漢中へと進攻して来たため劉備が一刻も早く益州に戻らざるを得なくなった事もあった

正史と演義の両面から見る単刀赴会

関羽魯粛はお互いの兵を百歩離れたところに待機させ、それぞれ刀を一つだけ持って交渉の席に着いた。(公平性のアピールとはいえ、一対一なら魯粛にまず勝ち目のない力関係であり、関羽が魯粛を斬ったらどうするつもりだったのか?という事は考えてはならない

魯粛は後で返すと言いながら一向に荊州を返さない劉備の態度を責め、関羽はそれに反論する事が出来なかった。

正史ではいいところなく魯粛にやり込められる関羽だが、演義では「荊州は劉表から受け継いだ土地であり、劉備は荊州を治めるに相応しい人徳を持っている」と軍神らしい威圧感で魯粛を威嚇し、挙げ句の果てには帰る際に酔ったふりをして魯粛を人質にしながら船に乗るまで離さないなど、久々の出番に大ハッスルを見せてくれる。

関羽ファンも久し振りの出番と活躍に大満足の名場面だが、これは正史で出番の少ない関羽を活躍させるために作られたフィクションであり、関羽を神格化している演義ならではの「演出」である。

単刀赴会から見る魯粛の実像

話を交渉に戻すと、口約束とはいえ劉備から「目的が果たされたら荊州を渡す」という言葉を引き出したのは魯粛であり、冷静な視点から見て関羽と魯粛の力関係で強いのは魯粛の方だった。

また、劉備には魯粛に逆らえない「理由」があった。

曹操から荊州を追われて逃げて来た弱小勢力に過ぎない劉備を受け入れ、同盟を結ぶよう働き掛けたのは魯粛だった。

諸葛亮の天下三分の計ではないが、魯粛も曹操を牽制するための第三勢力を必要としており、劉備にはその第三勢力として生き延びて貰う必要があった。

それ故、劉備が漁夫の利を得る形で荊州を手に入れても何も言わず統治を認め、益州を手に入れるまで我慢強く待っていた。

地盤のない、流浪の弱小勢力だった劉備が地盤を手に入れてから第三勢力として躍進出来たのは魯粛のお陰であり、劉備は「魯粛によって生かされていた」といっても過言ではない状態だった。

そういう背景もあって劉備は魯粛に頭が上がらない状態であり、関羽も荊州の割譲に応じるしかなかった。

演義では劉備陣営に翻弄されるお人好しというイメージが強い魯粛だが、正史に描かれた彼の姿は演義とは真逆で、正に劉備陣営の「キーパーソン」だった。

 

アバター

mattyoukilis

投稿者の記事一覧

浦和レッズ、フィラデルフィア・イーグルス&フィリーズ、オレゴン州立大学、シラキュース大学を応援しているスポーツ好きな関羽ファンです。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 曹操孟徳の少年期について調べてみた「正史三国志」
  2. 【三国志】 諸葛亮の涙 「なぜ馬謖は処刑されなければならなかった…
  3. 『三国志演義』で描かれた凄まじい”関羽の呪い”とは?
  4. 鍾会 〜自惚れから身を滅ぼした策略家 【蜀を滅ぼすも最後は自滅し…
  5. 『4人の皇帝に仕えた宮中のボス』 曹騰とは ~宦官の頂点を極めた…
  6. 【あの呂布を超える裏切り者】 笮融 ~仏教を利用した暴虐非道の教…
  7. 【三国志】 劉備の息子『劉禅』の暗愚すぎるエピソード 「無類の女…
  8. 三国志の書物の種類【正史、演義、吉川三国志】

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

悪魔達と聖人の壮絶な戦い 「各国の代表的な悪魔達」

「新約聖書」の最期に置かれた「ヨハネの黙示録」にはこんな一節がある。「天で戦いが起こった。ミ…

和田義盛(横田栄司)と巴御前(秋元才加)の子供?朝比奈三郎義秀の武勇伝【鎌倉殿の13人】

……しかるに朝夷名三郎義秀惣門を破りて南庭へ乱入し、籠るところの御家人らを攻撃す……(意訳:朝夷…

【日本最古級の色里】 奈良の「木辻遊郭跡と元興寺」へ行ってみた

エピローグ/遊郭とは遊廓(ゆうかく)は、公娼の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った地域…

厄払いの側面から陰陽師を調べてみた【護符も自分で書ける】

夢枕縛の小説「陰陽師」を初めとして起きた陰陽師ブームも、今ではすっかり落ち着いている。しかし…

徳川家綱 【徳川4代目将軍】―武断政治から文治政治への転換

徳川家綱 は1641年、3代将軍の徳川家光の長男として誕生した。家綱には補佐する人物がい…

アーカイブ

PAGE TOP