三国志のキーパーソン
三国志の鍵となる三国鼎立は様々な人物の活躍と、数々の歴史の偶然によって実現している。
その三国鼎立のキーパーソンとして大きな役割を果たしたのが魯粛(ろしゅく)である。
演義のイメージが強くなりがちな日本に於いて、魯粛のイメージは「劉備陣営に振り回されるお人好し」である。
呉の都督である周瑜(しゅうゆ)の部下として劉備陣営と呉の間を奔走し、その度に劉備からはいいようにあしらわれ、関羽には脅された挙げ句人質にされるなど散々な扱いを受けている。(ピエロ的な扱いによって見逃しがちだが、魯粛が劉備と孫権の間を取り持ったからこそ赤壁の戦いが実現した訳で、目立たないながらも大きな魯粛の功績は忘れてはならない)
読者として見ると気の毒に感じるが、その扱いの悪さと人柄の良さが人々の共感を呼んでコアな人気を誇る、隠れた人気キャラクターとなっている。
一方の正史では、豪放で気前が良く、更には度胸もある大物として描かれており、ピエロ的な扱いだった演義とは対照的な存在となっている。
今回は、三国時代に大きな影響を与えた魯粛の実像に迫る。
周瑜との出会い
徐州の名門、魯家に生まれた魯粛は早くに父を亡くして祖母と暮らしていたが、裕福な家庭だった事もあって父親がいないながらも生活に困窮する事もなく、貧しい人に金銭を分け与える気前のいい人物だった。
また、魯粛は若い頃から武術に興味を持ち、これから来る戦乱の時代に備えて仲間達と訓練を行うなど時代の先を見据えた行動をしていたが、いわゆる「ボンボン」でありながらアウトロー達と付き合う魯粛を見て周囲の人間は「こんな馬鹿息子が生まれるとは魯家も衰えたものだ」と嘆いていた。
しかし、誰もが魯粛を馬鹿にしていた訳ではなく、魯粛の名を聞いた周瑜が物資の支援を求めた時は、自身が所有していた二つの蔵のうちの一つを黙って差し出し、その気前の良さを見た周瑜は魯粛が只者ではないと認め、生涯親しい関係を築く事になる。
その後、魯粛は袁術に仕えるが、ダメ人間である袁術をすぐに見限り、周瑜とのツテを使って孫策に鞍替えする。
200年に主君である孫策が暗殺されると、弟の孫権が後を継ぐ。
魯粛と孫権の関係は非常に良好であり、孫権を天下人と見た魯粛は孫権に対して「先のない漢に代わって天下を取るべき」と話すなど孫呉陣営で最も大胆な発言をする人物でもあった。
赤壁開戦の立役者
天下を取れという魯粛に対して、孫権は大きすぎる目標に想像出来なかったが、孫権は勿論、その後の歴史を変える「転機」が訪れる。
208年、南方を平定すべく曹操が南下する。
荊州を手に入れた曹操の次なるターゲットは孫権だった。
呉の内部では降伏か抗戦かで揺れており、纏まらない家臣の主張に孫権も頭を悩ませていた。
呉の中でも大きな影響力を持った魯粛は抗戦派であり、孫権に対して「私は名家の出身なので降伏しても優遇されますが、ご主君は大した家柄でもないから上手くいかないでしょう」と説いて抗戦を決意させる。
また、魯粛は弱小勢力に過ぎなかった劉備に早い時期から注目しており、劉備と孫権の同盟を実現させて赤壁の戦いの勝利に貢献している。
また、赤壁から凱旋した魯粛を出迎えた孫権は「私が馬丁となって下馬の手伝いをしたら君の功に報いたといえるだろうか」と聞くが、魯粛は「不十分です」と答える。
驚く孫権に対して魯粛は「あなたが天下統一をして私を迎え入れてくれて、初めて私は報いられるのです」と答える。
赤壁の勝利の先を見ていた魯粛らしい発言であり、孫権以上の大物だった事を伺わせるエピソードとして今日まで伝わっている。
魯粛が劉備を生かした理由
劉備が第三勢力としての独立を考えていたのと同様に、魯粛も曹操を牽制するための第三勢力を必要としていた。
そういう事もあり、魯粛は劉備に生き延びて貰う必要があった。
逆に言えば、劉備は魯粛がいなければいつ滅ぼされてもおかしくない状況であり、劉備は魯粛に逆らう事が出来なかった。(劉備が益州を手に入れて独立出来たのは劉備を生かした魯粛の尽力があったからであり、魯粛は三国鼎立の立役者の一人である)
また、正史と演義で描かれ方の違う名場面として有名な「単刀赴会」がある。
演義の魯粛は、要求した荊州の返還を関羽に拒否された挙げ句、人質にされるなど散々な扱いを受けているのに対して、正史では魯粛が劉備と孫権に与える影響の大きさを武器に関羽に反論の余地を与える事なく、領地を割譲させる事に成功している。
魯粛の死後に劉備と孫権の関係が悪化して、更には関羽の死によって三国の均衡が崩れた(魏の一強になった)のを見ると、魯粛の果たしていた役割は大きかった。
過小評価されがちな演義の「被害者」
正史を読むと魯粛の存在の大きさばかりが目立つが、演義では正史とは真逆の姿が描かれている理由は何故だろうか。
結論から述べると、演義は蜀と劉備を中心に描かれているため、正史のように魯粛にいいようにやられるのは都合が悪い。
劉備贔屓がデフォルトの演義では「やられ役」を用意する必要があり、ターゲットにされたのが時代のキーパーソンである魯粛だった。
正史の改変によって演義で大きく描写や扱いを変えられた人物は多数存在するが、正史と一転して酷い扱いを受けた魯粛は演義の被害者の一人である。
今回は魯粛に焦点を当てて正史に書かれた彼のエピソードを紹介したが、他勢力の劉備と関羽は勿論、主君である孫権ですら頭の上がらない、正に三国志屈指の「大物」だった。
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