男として生を享けた以上、目指すは天下、皇帝の座……世が乱れれば乱れるほど、多くの者が野心を抱き、天命を革(あらた)めるべく王朝を打ち立てては滅ぼされていきました。
時は紀元2~3世紀、中国大陸に魏・呉・蜀(蜀漢)と三つの王朝が鼎立した『三国志』の時代、彼ら以外にも皇帝を自称し、独自の王朝を樹立した者たちがいます。
有名なところでは淮南の袁術(えん じゅつ。字は公路)の僭称した仲王朝(ちゅう。建安二197年~同四199年。成は誤記)ですが、それだけではありません。今回はそんな一人・張挙(ちょう きょ)のエピソードを紹介したいと思います。一体どんな王朝だったのでしょうか。
人事に不満で謀叛を起こす
張挙の生年および前半生については不明な点が多いものの、『後漢書』によると幽州漁陽郡(現:北京周辺)の出身で、泰山(たいざん。現:山東省)太守を務めていたことが分かっています。
さて、時は後漢末期の中平二185年、涼州(現:甘粛省)の軍閥・韓遂(かん すい。字は文約)と辺章(へん しょう)が西方の羌(チャン)族と連携して叛乱を起こした際、張挙は同郷の張純(ちょう じゅん)と共に朝廷の討伐軍へ志願しました。
「今こそ、お国の役に立たせて下さい!」
「よろしくお願いします!」
しかし、太尉(朝廷の軍事最高官)の張温(ちょう おん。字は伯慎)は、自分とよりコネが強かった≒多くの賄賂をくれていた幽州涿郡(現:北京周辺)の公孫瓚(こうそん さん。字は伯珪)を起用したのでした。
「ちくしょう、伯珪の野郎が車騎将軍(を拝命する)とは!」
古くから遠交近攻と言うように、身近な勢力とは何かと利害が対立しやすいもので、公孫瓚とは同じ幽州の縄張りを競い合うライバル関係。かねてより劣勢に立たされていたところへ、今回の人事で大きく差をつけられてしまいます。
(張挙や張純にしても単なる忠誠心ではなく、賊を討伐する名目によって得られる各種支援や、中央政府とのコネを当てにしていた事でしょう)
「奴の下風に立たされるくらいなら、いっそ独立しちまおうか!」
自分たちで国を作って皇帝になれば、漢王朝の臣下に過ぎない公孫瓚など恐れるに足りぬ……恐ろしく安直な発想ですが、このくらいの大胆さがなければ、中華大陸で覇者となることは出来なさそうです。
かくして中平四187年、張挙は張純と謀って準備を整え、北方の烏桓(うがん)族の長・丘力居(きゅうりききょ)の協力を取りつけてから、漢王朝に叛旗を翻したのでした。
皇帝を自称したものの……
「野郎ども、遠慮は要らねぇ殺(や)っちまえ!」
さぁ、叛旗を翻した以上モタモタしてはいられません。張挙と張純は電光石火の勢いで右北平太守の劉政(りゅう せい)、遼西太守の楊終(よう しゅう)らを討ち果たし、王朝の樹立を宣言します。
「よぅし兄弟。おめぇが天子様で、おいらが将軍様だ!」
さっそく張挙は皇帝、張純は弥天将軍・安定王の位に就きました(と言うより名乗ってみた)が、そもそも国家とは何なのか、何をすべきかがよく解っていないので、とりあえず威張ってみるくらいしかできません。
(実際、国号ですら記録に残されていないので、よほどグダグダだったものと考えられます)
「よぅし……蘇(僕延。そ ぼくえん)よ。おめぇに兵隊5万ばかし預けっから、ちょっくら辺り一帯を荒らし回って来い!」
「へぃ」
かくして青州・冀州・幽州(現:河北省から山東省あたり)を大いに荒らし回った張挙たちでしたが、一方その頃、韓遂&辺章の討伐軍に抜擢された車騎将軍・公孫瓚は涼州に向かう途中だったそうです。
広大な大陸を徒歩や馬で横断するのだから移動に時間がかかるとは言っても、叛乱が起きてから二年も経って「いま向かっています」状態とは、随分のんびりした話ですね。
(※もちろん、兵士の動員や物資の調達など、出征前の準備にも時間が必要だった事もあることでしょうが)
「ふん、漁陽のチンピラどもが何をとち狂ったのか、烏合の衆を恃んで叛乱とは笑止千万……さっそく討ち果たしてくれよう!」
と、まだ出発してからそんなに進んでいなかったようで、張挙らの討伐を命じられた公孫瓚はすぐに取って返して、張挙・張純を攻め立てます。
「伯珪なんぞ恐れるに足らん!野郎ども、かかれ!」
かくして石門山(せきもんざん。現:遼東付近)に布陣、意気揚々と迎撃した張挙らでしたが、朝廷から資金や軍勢などの支援を受けていた公孫瓚を前に、あっけなく撃破されてしまいました。
「ひえぇっ、命あっての物種だ!」
大敗した張挙らは「朝廷」に残してきた家財も妻子も捨てて、鮮卑(せんぴ)族を頼って逃亡して行きます。
「ははは、口ほどにもないわ!者ども、賊輩(ぞくばら)を地の果てまでも追い詰めて、血祭りに上げてくれようぞ!」
張挙らの援軍に来ていた烏桓族の貪至王(とんしおう)も降伏し、ますます勢いを得た公孫瓚は、背後を顧みることもなく張挙・張純の追撃に駆け出したのでした。
張純は暗殺され、張挙は……
「ん……あれは盟友ではないか」
必死で逃げる張挙たちと、必死に追いかける公孫瓚……それを遠くから見かけた丘力居が公孫瓚の軍勢を急襲すると、今度は隙を衝かれた公孫瓚が態勢を崩して敗走。這々(ほうほう)の体で遼西郡の管子城へ逃げ込みました。
「助かった!さぁ、このまま一気に逃げ切ろう!」
張挙と張純はそのまま鮮卑族のテリトリーへと逃げ込み、ひとまず身の安全を確保できた一方で、公孫瓚は丘力居の率いる烏桓族の大軍に完全包囲されてしまいます。
まさに絶体絶命!……と思いきや、兵糧が尽きたようで丘力居は軍勢を解散させ、公孫瓚もやっとの思いで本拠地へ生還できました。
そのままどっちから攻めるでもなく、グダグダのまま年が明けて中平五188年。朝廷は事態を打開するべく、漢王族の劉虞(りゅう ぐ。字は伯安)を幽州牧として現地へ派遣します。
「武力にモノを言わせようとする伯珪殿のやり方は、パフォーマンスが派手なだけで成果は上がりにくく、またいっとき鎮圧しても反感を買って平和が長続きしない。賊徒にせよ異民族にせよ、彼らが心から平和を望むように仕向けるべきだ」
として、叛乱の首謀者である張挙と張純の両名については、その首級に懸賞金をかける一方で、ただ従っている者たちや、烏桓・鮮卑・匈奴など北方の諸部族に対しては租税の減免や公正化など、懐柔策を打ち出していきました。
「おのれ伯安め、軟弱な方策で点数稼ぎしおって(これではわしの手柄が奪われてしまう)!」
順調に浸透し、成果(賊徒や異民族の帰服)を上げ始める劉虞の懐柔策に嫉妬した公孫瓚は、烏桓族の使者を暗殺するなど妨害工作を繰り出しますが、結局は劉虞の人徳が勝利を収め、ついには丘力居もあっさりと降伏。
「あの二人の首級を差し出せば、褒美がたんまりと貰えるぞ……!」
鮮卑族に匿われていた張挙と張純もいよいよその身が危なくなり、ついに中平六189年3月、張純は食客の王政(おう せい)に裏切られて暗殺され、その首級は劉虞の元へ届けられました。
(この件が後に劉虞と公孫瓚の確執を深め、劉虞の謀殺につながるのですが、この事について『三国志』著者の陳寿は、公孫瓚を激しく批判しています)
どうにかその場を切り抜け、逃げ延びた張挙についてはその後の記録がありませんが、かつて(自称とは言え)皇帝を名乗った男としては、非常に寂しい末路をたどったことは想像に難くありません。
※小説『三国志演義』では、張純と共に殺されたとされています。
以上が後世に伝わる「張純の乱」の顛末ですが、彼らの謀叛がもし成功していたら、樹立した国家がどんなものになったのか、興味は尽きないところです。
※参考文献:
藤田至善 解説『後漢書 (中国古典新書)』明徳出版社、1970年1月
陳寿『正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)』筑摩書房、1994年3月
井波律子『三国志演義 全7巻セット (ちくま文庫)』筑摩書房 、2003年8月
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