『三国志』ファンで関羽(かん う。雲長)を知らない人はいないと言っても過言ではないでしょう。
ただ武力に秀でているばかりではなく、主人公である義兄・劉備(りゅう び。玄徳)に対する篤い忠義、そして立派なヒゲと青龍偃月刀(後に+赤兎馬)がトレードマークの堂々たる風采……関羽ほど男心をくすぐるキャラも多くはありません。
絶大なカリスマをもっていた関羽は死後も神(関聖帝君)として祀られ、今日でも多くの人々に信仰されていますが、その最期はとても悲しいものでした。
時は後漢王朝の建安24年(219年)12月、敵対していた孫権(そん けん。仲謀)の軍勢に捕らわれて降伏を拒絶、斬首されてしまうのです。
かの呂布(りょ ふ。奉先)をはじめ天下無数の豪傑たちと渡り合い、そして葬り去って来た活ける軍神・関羽を捕らえるとは並大抵のことではありませんが、その快挙?をやってのけたのは孫権の家臣・馬忠(ば ちゅう)。
関羽を捕らえるくらいですから、並々ならぬ武力か知略、あるいは両方を兼ね備えていたことでしょうが、実はこの馬忠。「関羽を捕らえた」という事実以外はほとんど謎に包まれているのです。
一体どういうことなのでしょうか?今回はそんな『三国志』の謎多き武将・馬忠についてその実像を調べていきたいと思います。
【備考】同時代に劉備の武将で同姓同名の馬忠(徳信)がいますが、完全に別人です。
関羽を倒すためだけに登場?
馬忠については、その出自も生没年も字も家族も不明。何ならいつから孫権に仕えていたのかすら、定かではありません。
手がかりらしい記述と言えば、孫権の将軍である潘璋(はん しょう。文珪)の軍勢に司馬(しば)として関羽討伐に従軍したことくらいです。
司馬とは将軍を補佐する部隊のナンバー2ですから、かなりの地位と言えますが、実績がないどころか、氏素性も判らない人物をいきなり抜擢するものでしょうか。
こういう不自然な人事にはコネや賄賂がつきものながら、仮に権力者(孫権?潘璋?)のお気に入りだからと言って、いきなり関羽討伐という難関ミッションに副将として投入するのは無謀すぎます。
実績を作ってやりたいのであれば辺境の警備とか山賊退治など、もっと無難なミッションをいくらでも与えてやれるはずです。
にもかかわらず投入するからには、相応の根拠となる実力(あるいは秘策)があったのかも知れません。ポッと出の副将に不満を持つ部下たちもいたでしょうから、潘璋は馬忠とは別に表向きの副将をおいて、馬忠を特殊任務に当たらせていた可能性も考えられます。
「兵を率いる上で無位無官では不都合ゆえ、そなたを司馬とする。抜かりなく関羽を捕らえよ」
「ははあ」
あるいは兵など一切率いず、単独あるいは数名の手勢だけでミッションをクリアした功績により、後づけで「元から潘璋の司馬であった」体裁を整えたのかも知れません。
特殊部隊を率いた馬忠がどのように関羽らを生け捕ったのか定かではありませんが、ともあれ馬忠は大役を仕遂げたのでした。
『三国志演義』に描かれた馬忠の後日談
まさに関羽殺しのリーサルウェポン(最終兵器)としてその使命をまっとうした馬忠ですが、残念ながら関羽を捕らえた後の記述もまったくありません。どこへ行ってしまったのか、あるいは「関羽さえ討ってしまえば、もはや貴様は用済みだ」とばかり粛清されてしまったのでしょうか。関羽ほどの大物を倒した武将としては、あまりにも謎すぎる退場です。
それでは流石にキャラクターがもったいない……と思われたのかどうかは知りませんが、歴史小説『三国志演義』では馬忠の後日談も書かれており、関羽を生け捕りにした功績によって関羽の愛馬であった赤兎馬を与えられます。
「ありがたき仕合せにございまする!」
しかし、赤兎馬は長年関羽に乗られていたせいか義理堅い性格も乗り移ったようで、馬忠をはじめ誰も乗せようとはせず、亡き主人に殉じるように秣(まぐさ)をいっさい喰わず、餓死してしまいました。
「あーあ……まぁいいさ。次行こう、次!」
一方、劉備は挙兵以来の同志であった義弟・関羽が討たれた復讐を遂げるべく、黄初2年(221年)7月、怒り狂って攻め込んできました。
これが後世に言う「夷陵(いりょう)の戦い」ですが、ここでも馬忠は劉備の老将・黄忠(こう ちゅう。漢升)を射殺すなど赫々たる武勲を立てます。
この黄忠、老いたりと言えども天下に知られた弓の名手で、関羽と並ぶ「五虎大将軍(関羽は第1位、黄忠は第4位)」の一人。五虎大将軍の5人中2人を一人で倒し、ますます武名を高めた馬忠ですが、その最期は仲間による裏切りでした。
「やべぇ、やべぇよ……」
馬忠を殺したのは、かつて関羽を裏切った麋芳(び ほう。子方)と傅士仁(ふ しじん。君義)。怒涛の勢いで進撃して来る劉備の軍勢を前に怖気づいた二人は、「何か手土産を持って降伏しようぜ」と共謀。
「関羽を生け捕った馬忠の首級を持って行けば、関羽を裏切った罪を赦してもらえるかも……」
とまぁ、そんな感じで馬忠を暗殺。その首級を持って劉備の陣営に投降したのですが、赦してもらえるはずもなく、二人とも斬首されたのでした(当然の報いですね)。
その後しばらくは快進撃を続けた劉備たちですが、長江を下りに下ってのび切った補給線をズタズタに寸断され、大敗北を喫することになります。
命からがら本拠地の成都(現:四川省成都市)へ逃げ帰った劉備は、敗戦のショックで関羽の後を追うように亡くなり、『三国志』における一つの時代が過ぎ去っていくのでした。
※参考文献:
小川環樹ら『三国志 8冊セット (岩波文庫)』1995年7月
井波律子『三国志演義 全7巻セット (ちくま文庫)』2003年8月
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