天下の要衝を治めた隠れた名君
コーエーテクモゲームスの『三國志』シリーズは開始勢力によって大きく難易度が異なる。
ステータスオール100の新武将で固めたチート勢力はおいといて、領地と配下に恵まれた曹操や袁紹は開始時点で他の勢力より一歩も二歩もリードしているためゲームをかなり有利に進められる。(反董卓連合に加え呂布の忠誠管理など面倒な事も多いが、董卓も初期は恵まれている)
ゲームを快適に進めたい(ぬるゲーともいう)ユーザーはそれでいいが、有名ではない勢力で天下統一の野望を抱いたり、ナチュラルで何らかの縛りがある勢力で攻略したいユーザーも存在するだろう。
ある程度整った戦力と将来的に広めやすい土地という「丁度いい環境の勢力」はないかと思って探したが、そこで浮かんだのが荊州の劉表だ。
北に曹操という強敵がいるが、南部への勢力拡大は比較的容易であり、所属する武将の質も決して低くない。(更には荊州に攻めて来た孫堅を死に追いやっている)
リアルとゲームは全くの別物であると留意する必要があるが、存命中に荊州を守り抜いた劉表の実績はもっと評価されるべきではないだろうか。
今回は、隠れた名君と呼ぶべき劉表の生涯を辿る。
荊州統一
後に荊州の統治者として名を残す劉表は若い頃から有名な存在で、当時を代表する清流派グループである八及の一人として広く知られていた。
しかし、桓帝死後に起きた第二次党錮の禁で宦官による清流派の粛清が始まると都から脱出する。
地元で雌伏の時代を過ごしていた劉表だが、184年に黄巾の乱が起きると、可進に招かれて北軍中侯の官に任命される。
北軍中候は宮中を警護する屯騎校尉、越騎校尉、歩兵校尉、長水校尉、射声校尉を監督する官職で、劉表にとっても大きな出世だった。
189年に霊帝が崩御すると、王叡の後任として荊州刺史となり、劉表の君主としての人生が始まる。
新たな統治者として荊州に入った劉表だが、荊州は地元の豪族の力が強く、劉表に従わない勢力が絶えず反乱を起こしていた。(統治者に絶対的な権限がないのは呉にも共通した問題で、孫権は彼らの機嫌を損ねないよう腐心していた)
いきなり統治に頭を悩ませる事になった劉表は、地元の名士として加わった蔡瑁、蒯越、蒯良に反抗勢力をどう対処すべきか相談する。
蒯良は辛抱強く人心を掴む事を説き、蒯越は自分達に従わない者を呼び寄せて皆殺しにすべきと進言した。
見事なまでに正反対である二人の主張に対して劉表が選んだのは、蒯越の意見だった。
儒学者でもあり、儒教的価値観を大切にしていた劉表は蒯良の意見も評価したが、懐柔よりも排除の方が早いという現実的な思考から酒宴に招いた反抗勢力の面々(その数は55人ものぼったという)を皆殺しにして荊州の地盤を固めた。
この時に殺した相手の手勢を自軍に吸収して戦力強化に繋げた。
襄陽の戦い
ただでさえ不安定な世の中に加え、配下の機嫌を損ねたら何があるか分からない。
そして、彼らが天下を望まず荊州での生活に満足しているのであれば劉表も従わざるを得ない。
劉表に天下を狙う意思があったかは書かれていないので本人にしか分からないが、荊州を統一してから初めてのピンチは想像以上に早くにやって来た。
劉表は黄祖を迎撃に向かわせるが、当代屈指の名将である孫堅に苦戦を強いられる。
快進撃を続ける孫堅に対して、連戦連敗の黄祖は峴山に追い詰められる。
『横山三国志』でこの場面を読んでいた時は筆者も孫堅の勝利を確信していたが、勝ち戦の連続で慢心した孫堅は孤立してしまい、一人でいたところを射殺されてしまう。(漫画で有名な落石による下敷きは演義の創作である)
「襄陽の戦い」として語り継がれるこの戦いは劉表の大逆転勝利で終わるが、※呉の闇の歴史でも書いた通り、劉表の勝利というよりも孫堅の軽率な性格による自滅という方が正しい。(資料によって孫堅の最期の描かれ方が違っており、ここでは追撃中に突出した説を書いたが、真実は誰にも分からない)
※トップが攻めたら殺される?呉の闇の歴史 「孫堅、孫策、孫権、諸葛恪」
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/57504/
矢で射たれても武器で斬られても刺されてもビームを食らってもHPさえ無事なら行動出来るゲームと違い、リアルでは何かがあれば一瞬で死んでしまう。
黄祖をあと一歩まで追い詰めながら自らの軽率な行動によって孫堅が命を落としたため、孫堅軍は撤退せざるを得なくなる。
決して劉表と黄祖の采配が当たった訳ではないが、99%敗北必至だった状況からまさかの大逆転によって荊州の危機は救われた。
隠れた名君へ
孫堅撃退後も劉表の軍事的スタンスは変わらず、反乱の鎮圧や援軍のために軍を出す事はあっても、領地を広げようとする事はなかった。
各地で激しい戦闘が繰り広げられる中、交通の便が良く、大きな戦争とも無縁な荊州は疎開先として注目されるようになり、文武関わらず多くの有名人が集まった。
汝南で劉備、関羽、張飛が再会した後に劉表の元にやって来たのは正史でも書かれており、主従関係にはなかったが劉表が抱えた最大の大物といっても過言ではない。
その劉備も、203年には博望坡の戦いで夏侯惇、于禁、李典を破って劉表の期待に応えた。
温暖で豊かな土地、そして何よりも劉表が領地の平和に尽力した結果、荊州は独自の文化が発展する事になり、自らの領地を決して戦火に巻き込まなかった劉表は「隠れた名君」と呼ぶに相応しい存在となっていた。
後継者争い
当時としては高齢の60歳を過ぎてから、劉表にも寿命以外に避けられない問題が出て来た。
それは、後継者問題である。
劉表には劉琦と劉琮という二人の息子がいたが、自身がもう長くないと分かっていながらも存命中に後継者を決める事が出来なかった。
当時の人が大好きな儒教的価値観に従うなら長男の劉琦が選ばれるべきだが、劉表の荊州統一の立役者の一人である蔡瑁(さいぼう)はそれを望まなかった。
劉琮の母は蔡瑁の姉であり、蔡瑁は自身の権力を強化するため、甥の劉琮を後継者にしようと画策する。
蔡瑁と蔡夫人の妨害によって劉琦は江夏へと移る。(形としては自ら江夏太守を願い出たが、劉琦の居場所を奪った蔡瑁達に追い出されたようなものだった)
蔡瑁の妨害は続き、危篤となった劉表の元にやって来た劉琦を父の死を看取らせる事すらせず追い返し、劉表が後継者を決めないままこの世を去ると、独断で劉琮を後継者に決めてしまった。
そして、劉表の死を待っていたかのように曹操が攻めて来ると、劉琮と蔡瑁は戦う事なく降伏する。
劉表が守り続けた荊州の最期は呆気ないもので、演義ベースの『横山三国志』やドラマの『三国演義』では、蔡瑁は劉備と劉琦の命を狙った上に劉表の領地を簡単に売った悪役として描かれている。
中学生だった当時は子供だった事もあって蔡瑁のイメージは最悪だったが、蔡瑁は元々地元の豪族であり、最優先は劉表(劉琮)への忠誠心よりも自らの保身で、当時の最大勢力である曹操を前に降伏を選ぶのは当然だった。
演義では周瑜の計略によって殺される蔡瑁も、正史では曹操の元で幸せな人生を送ったようで、降伏の選択は大正解だったようである。
荊州の平和の終焉
当時の荊州の中で数少ない抗戦派だった劉備は命からがら曹操の追撃を逃れ、赤壁の戦いで呉とともに曹操を破る。
曹操が撤退した後、劉備は火事場泥棒のような形で荊州を手に入れ、念願だった自分の領地を手に入れる。(劉備が擁立していた劉琦は209年に病死)
正史でも演義でも荊州を手に入れるチャンスはあったが、数年待ってでも曹操に狙われない、安全な時期に手に入れる劉備の我慢強さと読みの鋭さはさすがだった。
演義では「兄上」と呼ぶなど劉表を慕い、劉表も息子達を差し置いて後継者にしようと考えるなど良好な関係を築いていた劉備だが、正史では二人の仲が良かったという描写はなく、持ち前のコミュニケーション力で人脈を広げる劉備をむしろ警戒していた。
結果的にその劉備が荊州を統治する事になる訳だが、その後の波乱の歴史を見ると、隠れた名君が生涯を懸けて守り抜いた荊州の平和は、劉表の死とともに終焉を迎えるのだった。
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