野望高き天才
263年、もはや三国の一角を占める国家の蜀(蜀漢)に興隆の兆しがないと見た魏の晋公司馬昭(しばしょう)は蜀を滅ぼすべく軍勢を出撃させます。
この時、魏軍の中心となり、指揮をとった人物が鍾会(しょうかい)です。
幼少から多くの者たちに賞賛を受けるも、一方でプライドが高く、気に入らない者は死に陥れるほどの凶悪さを持つ人でもありました。
似たような人物に呉の諸葛恪(しょかつかく)がいるのですが、どちらも己の才に酔って身を滅ぼしたという共通点があります。
野心に溺れた天才の人生をご紹介します。
若き日の鍾会
鍾会は三国志において多数の名士を輩出している豫州潁川郡(よしゅうえいせんぐん)の出身です。
父親は後漢王朝の名士の血筋を受け継ぐ鍾繇(しょうよう)、母親は鍾繇の側室である張昌蒲(ちょうしょうぼ)です。
鍾会は幼い頃から賢く、母親も教育熱心であったため4歳で「論語」「春秋左氏伝」などを暗唱できるほどであり、5歳になった鍾会を見た魏の重臣蔣済(しょうさい)は「並外れた才能を持っている」と発言しています。
性格にクセのある蔣済が驚くほどの才を持つ鍾会は15歳で太学(※たいがく 国の最高学府)に入学し、ますます才能を開花させていきます。
幼少時のエピソード
ある日、鍾会は父の酒を兄と共に盗み飲んだ。
兄は拝礼をしてから飲んだが鍾会は拝礼をせず酒を飲んだ。
それを陰で見ていた父親の鍾繇は「なぜ拝礼をせずに飲んだのか」と問い詰めると、鍾会は「そもそも盗みというものは礼から外れている事なので、拝礼をしませんでした」と答えた。
ある日、魏帝二代目の曹丕(そうひ)が鍾繇の息子二人が賢いと聞いたので、中央に呼んだ。兄の鍾毓(しょういく)は緊張で汗が止まらなかったが、鍾会は汗一つかいていなかった。
これを見た曹丕が「緊張していないのか?」と聞くと、鍾会は「恐れ多くて汗一つ出ません」と答え、曹丕は笑って手を打った。
中央へ出仕する
20歳となった鍾会は朝廷へと出仕するようになります。またこの時、魏の中心にいた曹爽(そうそう)の腹心何晏(かあん)らと交流を持っていますが、249年に司馬懿がクーデターを起こすと、鍾会が何晏を擁護したなどは記されていません。
その後、司馬一族が魏の権力を掌握すると、彼らに重用され関内侯(かんだいこう)に昇進。257年に寿春城(じゅしゅんじょう)で諸葛誕(しょかつたん)が反乱を起こすと、司馬昭率いる鎮圧軍26万の参謀として活躍し、呉の全端(ぜんたん)・全懌(ぜんえき)を寝返らせることに成功しています。
また、この時の活躍から人々は鍾会を「張良(劉邦の軍師)」のようだと讃えています。
鍾会に関する人物評
ここで一旦、鍾会に関する当時の人の評をまとめてみました。
司馬昭の妻王元姫(おうげんき)曰く、
「鍾会は利に目を向けて義を忘れ、何でも自分でやりたがる人物です。恩寵が過ぎれば、必ずや見境をなくします。大任を与えてはなりません。」
辛毗(しんぴ)の娘辛憲英(しんけんえい)曰く、
「鍾会は独断で物事を判断する人物だから、野心を抱いていないか心配です。いつまでも人に仕える人物ではないでしょう。」
裴楷(はいかい)曰く、
「鍾士季に会うと、武器庫を見ているようだ。ただ矛や戟が並んでいるかのようで、落ち着かない。」
また、鍾会の数少ない友人の傅嘏(ふか)は「野心がその器量より大きい。慎み深くしないといけない」と忠告しています。
蜀攻略戦
263年、蜀の劉禅(りゅうぜん)が政治を顧みず国が荒廃しているとの情報を得た司馬昭は蜀討伐の大軍を出撃させます。
鍾会は鎮西将軍・仮節・都督関中諸軍事に任命され、10万の軍勢を率いて進撃を開始。この時、曹操の護衛として名高い許褚(きょちょ)の子である許儀(きょぎ)を職務怠慢として処刑しています。
漢中(かんちゅう)に雪崩れ込んだ鍾会軍は陽平関(ようへいかん)を占拠し、南下を続けますが、蜀の大将軍姜維(きょうい)が剣閣(けんかく)にて必死に抵抗したため、鍾会は撤退を考え始めます。
この時、別軍を率いる鄧艾(とうがい)は「陰平道から成都を奇襲できる」と進言しましたが、鍾会は農奴から将軍となった鄧艾を良く思っておらず、これを却下。
この結果、鄧艾は険しい陰平道を超えて、蜀の都である成都を強襲することに成功し、戦意を失った皇帝劉禅を降伏させてしまいます。
そして、鄧艾が自分を差し置いて、蜀を降伏させたことを知った鍾会は鄧艾を激しく憎み始めます。
天下簒奪の計
姜維が投降し、鍾会はこれを手厚く迎えると一言尋ねます。
「将軍、なぜこれほど降伏が遅れたのか?」
姜維は涙を浮かべ答えました。
「これでも早すぎたと思っております…。」
これを聞いた鍾会は姜維を気に入り、今後自分はどうすべきかと姜維に尋ねます。
姜維はこの発言から、鍾会が野心を抱いていることを察知し、蜀漢復活のため鍾会を利用してやろうと考えます。
そして、姜維は「鍾会こそが新たなる中華の覇者である!」と虚言を吐いて、鍾会をおだてると、気を良くした鍾会はこう呟きます…。
「上手くいけば司馬昭に取って代わって天下を治めることが出来るし、失敗しても蜀の地で劉備くらいにはなれるな…。」
さっそく鍾会は得意の偽文書を作ると「成都にいる鄧艾は謀反を企んでいる」とし、鄧艾を逮捕。姜維と共に悠々と成都に入城します。
鍾会の反乱とその最後
264年正月、成都に入城した鍾会は諸将を集めて宴会を開きます。すると、鍾会は突如として剣を抜き、諸将にこう呼びかけました。
「天下は今、司馬一族により蹂躙(じゅうりん)されている!
諸君よ!我と共にこの蜀にて司馬一族を打とうではないか!!」
これを聞いた諸将らは動揺し、狼狽(うろた)えます。
この様子を見た鍾会は姜維の進言に従い、同調しない者をたちを監禁して、反乱の準備を進めます。
しかし、監禁された将軍の一人である胡烈(これつ)は密かに息子である胡淵(こえん)に救援を求めたため、計画は露呈してしまったのです。
胡淵率いる軍勢は成都に雪崩れ込み、奇襲を受けた鍾会は抵抗も出来ず、姜維と共に八つ裂きにされ殺されてしまいます。享年40歳。
おわりに
鍾会が蜀討伐に向かう際、邵悌(しょうてい)という者が司馬昭に「鍾会に大軍を持たせるのは危険だ」と進言しました。
しかし、司馬昭は笑って答えます。
「私がそんなことを知らないとでも思っていたのか。鍾会が裏切ったとしても鍾会は上手くできないだろう。なぜなら、敗軍(蜀漢軍)の将兵は意気消沈し、遠征軍(魏軍)の将兵は魏に帰りたいから同調しないだろう。」
また、批評家の毛宗崗は「もし計画が上手くいっても姜維は鍾会を殺すつもりなので、どちらにせよ死ぬ運命である。」と発言しています。
自らの才能に酔った稀代の策略家は、結局は他人の掌(てのひら)で踊っていたことに最後まで気づきませんでしたとさ。
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