15世紀後半の応仁・文明の乱以来、合戦が常態となる戦国時代が140年のあいだ続いた。
60余州に生まれた戦国大名は、領国の国人を家臣として軍団を編成し、近隣の大名と合戦を繰り返す。合戦は、鎌倉末期に武器として槍が用いられるようになると、弓馬による個人戦から集団戦に変ってゆき、戦闘員として足軽が登場する。
やがて、戦国時代には前線に槍隊と弓隊が何段にも並んで対峙するため、総力戦となった。
そして、戦場には各大名家の家紋が立ち並ぶことになる。
武士の成立と家紋
【※島津家の鶴丸に十文字】
武士の登場は平安時代に遡るが、武士の家の誕生は、鎌倉幕府の成立をもって確立した。
征夷大将軍となった源頼朝のもとに参集した武士たちは、将軍とのあいだに御恩と奉公の関係を持つ御家人となった。幕府に出仕するときは礼服を着用するようになり、合戦のときは旗紋となる家紋を持つ必要がでてくる。陸奥伊達家や出羽佐竹家、薩摩島津家といった鎌倉時代にさかのぼる江戸時代の大名家には、頼朝から家紋を与えられたとの由緒が伝わっていた。
ちなみに鎌倉後期の「蒙古襲来絵詞(えことば)」には、合戦に参集する九州の御家人の旗に、竹崎季長(たけさきすえなが)の「三つ目結(みつめゆい)に吉文字(きちもじ)」や、菊池武房(きくちたけふさ)の「鷹羽(たかば)」とともに、島津久親(ひさちか)の「鶴丸に十文字」を見ることができる。
南北朝時代や室町時代の合戦の記録には、参集した武将を列記するのに家紋を並べたような記述となることがある。15世紀前半の常陸国(ひたちのくに/現・茨城県)での合戦を記した書物にも参戦した武将とその家紋が「竹に雀は上杉殿両家」のように記されている。
武士の増加と家紋
【※豊臣秀吉の桐紋】
戦国時代になると、大名同士が直接対陣して会戦するようになるため、軍団組織が整えられ、動員人数も大幅に増した。領国の村々にまで戦闘員を求め、その中からリーダーとなるような武士が誕生する。これは、武士の家がもっとも増えた時代といってよい。当然、家紋の種類も大幅に増えたことは疑いないだろう。
江戸時代の大名家の中で家紋の由緒が伝えられていないのは、上記のような経緯で戦国武将となったことを示しているのではないだろうか。また、主君から与えられた家紋を使用するという大名家も同様といえる。自身の出自のこともあり、天皇から拝領した桐紋(きりもん)を太閤桐(たいこうぎり)として諸大名に与えた豊臣秀吉の時代が、家紋文化の華やかな時代だったことは間違いない。
織田信長の家紋
【織田家の織田木瓜(もっこう)】
室町時代の15世紀後半に発生した応仁・文明の乱以来、100年に及んだ戦国時代は、尾張国に生まれ育った織田信長と、その武将から後継者となった豊臣秀吉によって終止符が打たれる。
信長の織田家は、家督を譲られた長男・信忠(のぶただ)が父と同時に京都で死去したため、孫の三法師(秀信)が跡を継いだものの、関ヶ原の戦いで西軍に属していたため断絶した。その結果、二男の信雄(のぶかつ)の家系が宗家を継いでいる。
家紋については家伝に「木瓜(もっこう)があるが、その他にも信長が平家の子孫を称したため、平家の代表紋である「揚羽蝶(あげはちょう)」、足利将軍家の家紋を信長が拝領した「二つ引き両」、中国から輸入された通貨を図案化した「永楽通宝銭(えいらくつうほうせん)」、禅の教えに基づき、「無」の文字を崩した「無の文字」、そして、信長が正親天皇から拝領した「菊」とある。なかでも「菊」現在でも皇室の紋として有名なものだ。
これらの紋は、後に信長が家臣に与えたものもあり、江戸時代においても織田家以外にまで残されることとなった。
豊臣秀吉の家紋
【※豊臣秀吉の太閤桐】
秀吉には桐紋(きりもん)がよく似合う。太閤桐(たいこうきり)と呼ばれ、多様な形のものを用いるようになったのは、それほど古いことではない。
天正14年(1586年)12月12月19日に太政大臣に任官したとき、源平藤橘(げんぺいとうきつ)に並ぶ「豊臣」姓を与えられ、同時に桐紋を賜与(しよ)されたことによる。豊臣秀吉と桐紋の組み合わせはこの時から始まった。では、それまではどのような家紋を使用していたのだろうか。
知っての通り、秀吉には名字の変遷がある。最初は「木下」を称し、次いで「羽柴」に改めた。が、生れは尾張の農村だったため、もともとは名字を名乗ってない可能性が高い。だが、織田信長に仕えていたときに「木下藤吉郎秀吉」と名乗ったという。このような伝承から、系図でなどでは木下を名字とするが、確かな史料での初見は永禄8年(1565年)まで下るようだ。
肝心の家紋だが、秀吉の家紋は、実は信長から与えられたとの説がある。信長は将軍・足利義昭から桐紋を与えられているので可能性は高い。それまでの功績を考えても、桐紋を用いていた期間はかなり長かったようだ。
最後に
家紋というと一家にひとつというイメージがあるが、時の権力者にとってはそうとも限らない。
信長は多種の紋を持ち、逆に秀吉は桐紋にこだわり、そのイメージを高めた。家紋からはその時代の背景が見えてくるようだ。
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