日本古来の伝統的な武芸として、何より日本の国技として絶大な人気を誇る相撲。
その起こりは神話時代まで遡るが、人間同士の相撲の最古の記録は、紀元前23年、天皇の御前で野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が戦った「すまい」とされている。
これはキックの打ち合いのすえ、野見宿禰が倒れた蹴速の腰骨を踏みつけて絶命させるという「何でもあり」の壮絶な試合であった。
そこからどのようにして、「力士としての品格」が必要な、現在の相撲のように移り変わっていったのか。
宮中行事からの進化
【※相撲絵(歌川国貞、1860年代)】
こうした古代ローマの闘技場さながらの試合はごく初期のことで、次第にルール整備も進んだと見られる。
8世紀初頭から毎年、40人ほどのつわものが選抜され、七夕の宮中行事の余興から「相撲節会(すまいのせちえ)」として正式な行事に発展。
これは宮中を警護する人員の選抜を兼ねたものだった。8世紀初頭というと、都が平城京に遷都し、奈良時代が始まった頃だ。
それと並行する形で発展したのが、神事相撲である。神亀(じんき)2年(725年)に諸国が凶作に見舞われ、聖武天皇は伊勢神宮をはじめ、21社に五穀豊穣・子孫繁栄などを願う祈願を行った。その神事のひとつが相撲で、他に舞楽、流鏑馬(やぶさめ)、競馬(くらべうま)などが行われた。
いずれも二者のどちらかが勝つことにより、占いの性質を帯びたものになっていて、その結果で吉凶が占われたのである。
神事としての相撲
【※奉納相撲(千葉県東庄町諏訪神社)】
不作・不漁のおそれがある土地の力士に対し、外から参戦した力士は勝ちを譲るというしきたりもあった。
今も伝わる神事で有名なのが愛媛県の大山祇(おおやまづみ)神社の「一人角力(ひとりずもう)」で、これは稲の精霊と相撲をとるため、常に力士が投げられて負け、観衆が拍手を送る慣わしとなっている。
この神事相撲で勝負よりも重視されるのが所作である。特に四股(しこ)は、土中の邪気を払う意味の儀礼として念入りに行われるが、陰陽道で悪霊を払う「足踏み」という儀式の影響を受けているといわれる。陰陽道の場合は「禹歩(うほ)」といって、呪文を唱えながら大地を踏みしめたり、すり足で地面に図形を描くものだ。
こうした神事としての相撲は地域に根強く残り、後に奉納相撲とも結びつく形で今に伝わっている。
武家部網
【※鎌倉時代に相撲が披露された鶴岡八幡宮】
その一方、12世紀以降は朝廷の実権が弱まり、相撲節会は廃止され、代わりに「武家相撲」が盛んになった。乱世の到来により、合戦に役立てるため、実戦的な組み打ちの技術を相撲で身につけたのである。
鎌倉幕府の創始者、源頼朝は特に相撲を好み、家臣にも推奨した。畠山重忠、河津祐泰(すけやす)らは、武士として名を馳せる一方、相撲も得意とした。
鎌倉時代初期の伝記「曽我物語」によると、現在も相撲や柔道技として知られる「河津掛け」という技は、河津祐泰が俣野景久(またのかげひさ)に繰り出したことに由来するという。
また、鎌倉の鶴岡八幡宮でも流鏑馬、古式競馬とともに必ず相撲が披露された。
時代は下り、室町時代を経て戦国時代となるや特に相撲を推奨していたのが、天下統一を目指した織田信長である。
戦国大名の相撲
「信長公記」や、ルイス・フロイスの記録によれば、織田信長は何度も相撲大会を行ったほか、自らも好んで相撲をとったという。
「江州国(近江国)中の相撲取三百人召し寄せられ、安土御山にて相撲をとらせて御覧候(ごらんそうろう)」(信長公記)とあるように、居城の安土城で開催した相撲大会では、数百人から最大1,500人もの相撲取りを集め、上位者を家臣として召抱えた。信長にとっての相撲とは、有能な武芸者を選抜する目的も兼ねていたようである。
信長の跡を継いで天下人となった豊臣秀吉も、聚楽第(じゅらくだい)において上覧相撲を行った。
他にも、有名な武将の逸話として、元和元年(1619年)、当時53歳の仙台藩主・伊達政宗が、江戸城で若狭国小浜藩主・酒井忠勝と行き合い、突然「相撲を取ろう」と言い出した一件がある。
33歳の酒井は礼服だったので「またの機会に」と、立ち去ろうとしたが、政宗に手を引っ張られたので仕方なく組んだ。名のある両雄同士の取組に諸大名たちも集まってきては「酒井が負けたら譜代の名折れぞ」と声援が飛び交う始末。結局は酒井が政宗を投げ飛ばしたが、起き上がった政宗は「さてさて御身は相撲巧者かな」と忠勝を賞賛したという(江戸中期の書「明良洪範(めいりょうこうはん)」)。
見世物としての大相撲へ
【※江戸時代の力士。大小の刀を差しており、武士と同じ待遇であった】
さらに時代が下って江戸時代になると、実戦的な武家相撲は衰退し、民衆に相撲を披露して資金を集めては寺社に奉納する「勧進(かんじん)相撲」が主流となっていった。
相撲取りも職を失った武士(浪人)や農民の中から力自慢の者達が出て勧進相撲に参加していたのだが、これが「大相撲」へと発展してゆく。そして、江戸城下において将軍の上覧を受けるようになったことで隆盛期を迎えた。しかし、江戸時代の始めまでは大相撲にも土俵がなかった。それまでは「人方屋(ひとかたや)」という直径7~9mほどの人垣を作り、その中で取組が行われていたのである。
やがて、その囲いに米俵が使われるようになり、四角形の土俵を経て、現在のような円形の土俵になった。今と同じく土俵の上は屋根で覆われていたが、東屋のような形で四隅に柱が立てられていた。しかも、この形は昭和27年(1952年)の秋場所で廃止になるまで続いたという。
最後に
江戸時代に見世物となった大相撲だが、神事としての名残りもある。おなじみの「ハッキョイ!」という言葉だ。両力士が立ち上がり、ぶつかり合う直前に行事が軍配を引くと同時に発するものだ。
由来には諸説あるが、「良い八卦(はっけ/占いのこと)になる」という縁起のよい掛け声であるともいわれる。
せめて現代の大相撲に関わる人間には、神様に対して恥ずかしくない態度を忘れずにいてほしいものだ。
参考文献 : 信長公記 / 曽我物語
日ユ同祖論でいうユダヤ教の神事が起源