はじめに
1996年(平成8年)山梨県において一つの病気が終息したこと告げる宣言がなされました。
その病気の名は「地方病」、またの名を「日本住血吸虫」と呼ばれるものです。
この日本住血吸虫、長きに渡り原因不明の奇病として甲斐(現在の山梨県)の国を恐怖のどん底に陥れ、感染すれば最後。決して治ることは無いと言われていたほどの病気でした。
また、戦国最強と言われた武田信玄もこの奇病に感染していたのでは?と思われる部分があり、実際に武田家の家臣がこの病により死去しています。
つい少し前までの日本でも見られたこの「日本住血吸虫」。今回は、その恐るべき生態と甲府に住む多くの人を死に至らしめた悲劇の歴史に迫ります。
日本住血吸虫とは
ヒトを含む哺乳類全般の肝門脈(肝臓部付近の血管)内に寄生する寄生生物の一種です。
この生物は最初、宿主動物の糞便とともに排出された卵が水中で孵化し、「ミラシジウム」と呼ばれる幼体となるのですが、この時点ではまだ哺乳類に寄生する能力はありません。
このミラシジウム、最初に巻貝の一種である「ミヤイリガイ」という貝に寄生し、「スポロシスト」と呼ばれる生物へと進化します。
さらにスポロシストはミヤイリガイ内部にて進化を遂げ、長く先端が二又に分岐した尾を持つ「セルカリア」という生物に変身。セルカリアはミヤイリガイ内部を破り出ると、水中を泳ぎ最終宿主なる哺乳類を探します。
その後、宿主となる哺乳類を見つけたセルカリアは寄生行為を開始するのですが、恐ろしいことにこのセルカリア、通常の寄生生物による経口感染と違って、なんと相手の皮膚から侵入して寄生することが出来るのです。
皮膚から血管内に侵入したセルカリアは宿主の肝臓付近の血管に寄生し、成虫へと進化。
成虫は宿主の血管内に1日約3000個の卵を産卵し、宿主の血管機能を破壊していきます。
寄生された宿主は様々な症状と障害を引き起こし、最終的には宿主の腹部は「太鼓腹」と呼ばれるほど膨張し、死に至ります。
主な有病地
「日本住血吸虫」という名前ですが日本固有の疾患という訳ではなく、現在もアジアを中心とした国々で見られている病気です。(※病名および原虫に日本の国名が冠されているのは、成体を発見したのが「日本が世界初」だったからである。)
その歴史は古く、紀元前2世紀の中国前漢時代の長沙国の太守であった利蒼の妻が疾患していたことが判明しています。
さて、一方の日本でもこの病気は古くから伝わっており、現在の山梨県、福岡県、佐賀県、広島県でも症状が見られていました。特に山梨県の甲府盆地周辺の被害は凄まじく、地元民はこれを「地方病」と呼び忌み嫌い、「流行地には娘を嫁に出すな。」という俗諺が生じていたほどでした。
感染すると腹部が膨張することから「水腫脹満(すいしゅちょうまん)」、「はらっぱり」、などとも呼ばれていた「地方病」は、少なくとも近世の段階ですでに甲府盆地で広く流行していたものと考えられています。
またこの病気の有病地から分かることは、全て住血吸虫が生息しやすい水源地帯であることが分かります。
武田家と住血吸虫
甲斐国の戦国大名として名高い武田家の武将も、この病気で苦しめられていたことが軍学書である「甲陽軍鑑」の記述から分かります。
甲陽軍鑑によれば武田二十四将の一人と称される小幡豊後守昌盛が重病のため土屋昌恒を通して当主である武田勝頼のもとへ暇乞いに来る場面があり、この中に積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)と書かれた記述があります。
この時、武田家は滅亡寸前の時期であり、武田勝頼一行が本拠地である新府城を捨てて岩殿城へ向かう途中立ち寄った甲斐善光寺門前で、歩くことすらままならない小幡昌盛が勝頼に暇乞いを申し出た場面と言われています。
また、ここからは悪魔でも筆者個人の推測なのですが、戦国最強とも言われた有名な武田信玄はこの住血吸虫に感染していたのではないかと考えています。
武田信玄の死因に関しては様々な説があるのですが、気になったのが信玄の侍医である御宿友綱(みしゅくともつな)が小山田信茂に当てた書状で
肺肝に苦しむにより、病患たちまち腹心にきざして安んぜざること切なり。華佗の術を尽くして、君臣佐史の薬を用いるといえども業病さらに癒えず
と信玄の健康状態が記されており、この「肺肝」という部分が「肺」なのか「肝臓」を指すのかが気になります。もし「肝臓」であるなら住血吸虫の成虫が寄生する部分です。
次に「病患たちまち腹心にきざして」の部分なのですが、住血吸虫の産卵により血管障害がおこり信玄の腹部の内臓に異変が起きていた可能性も考えられます。しかし、住血吸虫の特徴である「水腫脹満」の症状が記されていないので違う可能性もありえます。
また、信玄が死去する1573年(元亀4年)5月の一ヶ月前の衰弱症状に「口中に“はくさ”が出来、歯が5つ6つ抜けて、それより次第に弱ってきた。すぐに死脈が打ち始めた」と報告されていますが、これも血管障害による口中内部の壊死ではないかと筆者は考えています。
甲府盆地を覆う住血吸虫の被害
戦国の世も終結し、日本は天下泰平の江戸時代を迎えるわけですが、甲斐の国の住民は死の恐怖に怯えながら暮らすこととなります。
江戸時代の年貢米制度により米の需要は増々増えたため、甲府盆地に住む多くの農民も稲作に励むことになるのですが、逆にこれが住血吸虫の潜む水田に接触する機会を一気に増やしてしまい、結果として感染者も激増させてしまいます。
地元民たちは土地に異変があるのでは?と考えるわけですが、封建社会である江戸時代においては簡単に移転、職業を変えることもままならず、農民として田畑を切り開かなければなりませんでした。
また、この奇病で亡くなる者はほとんどが稲作に携わった貧しい農民たちであったので、幕府や役人たちもほとんど関心を示しませんでした。そのため甲府盆地に生まれた貧しい農民たちはこの奇病を「運命」であるとして受け入れるしかなかったのです。
地元民たちが奇病を「運命」として受け入れてから約2世紀が過ぎ、世が幕末と呼ばれるころには甲府盆地周辺は正に地獄と化していました。
このころには甲府盆地の悲惨さが以下のように歌われています。
嫁にはいやよ野牛島(やごしま)は、能蔵池葭水(のうぞういけあしみず)飲むつらさよ
竜地(りゅうじ)、団子(だんご)へ嫁に行くなら、棺桶を背負って行け
中の割(なかのわり)に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶
江戸の世も終わり、時代が明治へと進むと、次第に一部の甲府の住民たちは村を捨てることを本気で考え始めるようなります。
1874年(明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い宮沢村と大師村の2村を束ねる村長は、もはや村の存続は不可能であると考え、離村を決意。村の嘆願書を明治政府に提出します。
しかし、まだ政権が樹立したばかりの明治政府にとって、一村移転などという住民運動は当然認められませんでした。しかし、住民たちはその後も粘り強く離村陳情書を提出し続けたため、明治も終わりに近づく約30年後に、その願いは聞き届けられました。
こうして宮沢村と大師村は廃村となるのですが、甲府の地にて住血吸虫の脅威が去った訳ではなく、その後も死傷者は出続けることとなります。
奇病の解明へ
1881年(明治14年)8月、甲府盆地に住む住民たちより原因調査を依頼する請願書が山梨県令へと提出されます。請願書には
原因は皆目判らず。水だろうか、土だろうか、それとも身体に原因があるのだろうか。嗚呼悲しきかな、困苦見るを忍びず。
と書かれており、その悲痛さが分かります。
一方、明治政府も徴兵検査を行ったところ、甲府盆地に住む青年のほとんどが栄養失調状態であり何かしらの障害を抱えていることに気付きます。
また、当時の明治政府は国策として富国強兵に励んでいたので、この病気が蔓延することに危機感を抱きます。この事態を重く見た政府は本格的に奇病の調査を開始しますが、手掛かりは掴めません。
行政による原因解明が滞る中、山梨在住の医者である吉岡順作は奇病が水そのものと関係していることに注目し、死亡患者の解剖を試みますが、日本独自の穢れ思想と恐怖心もあってか多くの住民から解剖を反対されます。
しかし、甲府住民である「杉山なか」という女性が「もう自分の命は長くは持たないから自分の体を使って欲しい」と志願します。この勇気ある行動に吉岡と県医師会は涙を流して感謝しました。
なか氏の遺体を解剖した結果、彼女の肝臓は肥大し、表面に白い斑点が多数点在するのを発見。
これを見た医師の一人である三神三朗 は「新種の寄生生物による病」であることを確信し研究を進めますが、正体不明の寄生虫による肝臓肥大の疾患の因果関係を導き出すことに難航します。
そんな中、三神の討論会に参加していた桂田富士郎は三神の意見に興味を抱き、研究に参加します。二人は患者に下剤を施したところ糞便に多くの虫卵が見られるも、成虫が全く見つからないことに血管内部に寄生するタイプの生物であると疑います。
その後、三神が飼っていた飼いネコが寄生されてしまったため、止む無くネコを解剖し調べたところ、アルコール液に保存しておいたネコの肝門脈内から約1センチほどの新種の寄生虫の死骸を発見します。
三神と桂田は他の感染していると思われるネコを解剖し、肝門脈をしらべたところ32匹もの生きた寄生生物を発見。これにより桂田と三神はこの寄生虫が全ての原因であることを証明し、これら新種の寄生生物を「日本住血吸虫」と命名します。
しかし、この日本住血吸虫については、まだこの段階では多くの謎を残したままでした。
感染経路とミヤイリガイの発見
日本住血吸血虫の発見に成功したものの、まだ解明できていない2つの謎がありました。
それは、「感染経路」と「中間宿主」の正体でした。
甲府盆地では昔から「能蔵池葭(葦)水飲むつらさよ」と民謡に歌われたように、飲料水が感染経路であると考えられていました。そのため、飲み水は全て煮沸してから飲むようにと住民たちに厳命を下しますが、住血虫の被害は一向に収まりません。
そこで1909年(明治42年)6月、牛を使った一つの実験が行われました。まずグループを二つに分け、1つのグループは牛に与えるエサは全て煮沸したものを与え、通常通り水田や小川周辺を移動させるグループ。そして、もう一つのグループは牛の体全身を防水用具で覆い、飲食物は通常通り与えるグループです。
大方は飲食物による経口感染を支持していたのですが、実験の結果、防水用具で覆われた牛は全く感染しておらず、水田や小川に入った牛たちは全て感染していたのです。
また、感染していた農民が呼んでいた「泥かぶれ」という皮膚のかぶれがあったのですが、これが牛たちにもあったことで、日本住血吸血虫は皮膚感染が原因であることが確定します。
一方、中間宿主の発見は難航します。被害者の糞便中に含まれる虫卵から孵化した幼虫(ミラシジウム)がどうやっても成虫へと進化せず、僅か2日で死滅してしまったからです。
中間宿主の発見は困難を極め、一時は用水路に多く生息する巻貝のカワニナが中間宿主ではないかと思い、実験を行いますがミラシジウムは寄生しません。そんな中1913年(大正2年)の夏の日、同じ日本住血吸血虫の被害地である佐賀県にて体長僅か8ミリほどの小さな巻貝が発見されます。
これを発見した宮入慶之助と助手である鈴木稔が実験を行ったところ、幼虫であるミラシジウムはこの巻貝に寄生し、最終的に成虫であるセルカリアとなって巻貝の中から飛び出してくることを確認したのです。
この報告を聞いた山梨県の調査団一同は宮入慶之助を迎え入れて、さっそくこの巻貝を探し始めます。すると、凄まじい数の巻貝が甲府盆地にて発見されたのです。また研究の結果、この巻貝は全くの新種の貝であることが判明し、世界的な大きな衝撃を呼び起こします。
この巻貝は宮入慶之助の名前から「ミヤイリガイ」と呼ばれ、ついにこの奇病の正体であることが判明しました。本格的な調査から既に30年以上が経過して、ようやく謎が改名されたのです。
日本住血吸血虫の撲滅へ
元凶のであるミヤイリガイの発見後、1918年(大正7年)頃に駆虫薬である「スチブナール」が開発されるのですが、これは副反応が激しく誰にでも使用できる治療薬という訳ではありませんでした。
またミヤイリガイは繁殖力が強く、小さな水溜まりにも生息するため、病気の根絶のためにはミヤイリガイを完全に絶滅するしか方法はないと認識されます。
こうして山梨県と甲府盆地に住む地域住民は一致団結し、ミヤイリガイの撲滅運動を開始。ミヤイリガイの苦手とする生石灰を水源に散布し続けるのですが、これは並大抵の労力ではなく散布は第二次世界大戦終結後も引き続き行われました。
1949年(昭和24年)コンクリート製の用水路がミヤイリガイの生息に適していないことが判明すると、1956年(昭和31年)山梨県の予算を超えた国庫補助による一大計画が実行され、甲府盆地を網の目状に流れる水路は大小問わず全てコンクリートで塗り固められました。
このコンクリート計画は1985年(昭和60年)には累計総額100億円を突破する莫大な費用を注ぎ込んだ事業でしたが、この年には新規感染者と元凶であるミヤイリガイは一切見られなくなりました。
そして1996年(平成8年)山梨県知事より地方病、日本住血吸血虫による被害は終わったことを告げる終結宣言が出され、長きに渡った悪夢は遂に終止符が打たれます。その年間、明治政府が取り組み始めて115年。武田家の甲陽軍鑑による記述から4世紀に渡る長いものでした。
終結宣言後も地方病監視対策促進委員会と称する日本住血吸血虫に対しての組織が置かれ、2001年(平成13年)をもって、ようやく組織は解散されました。
甲斐の地を襲った恐るべき寄生生物の歴史をご紹介しました。
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