奈良公園と言えば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、美しい自然と共に共存するたくさんの鹿たちではないだろうか。
鹿たちは古都奈良の豊かな歴史と文化を象徴し、現在に至るまで多くの人々に愛され続けている。
今回は、奈良公園の鹿たちがなぜこの場所にいるのか、その歴史について触れていきたい。
奈良公園について
奈良公園は、1880年に設立され、広さは約660ヘクタールに及ぶ。
東大寺や春日大社、興福寺などの歴史的建造物が点在していることも特徴だ。
都市部にありながら、これらの寺社仏閣や豊かな自然環境が奈良公園の魅力を一層引き立て、訪れる人々に歴史と文化を感じさせる。
春日大社の聖域であり特別天然記念物に指定されている『春日山原始林』や、天然記念物に指定されている『ナラノヤエザクラ(奈良の八重桜)』など、見どころも多い場所である。
神話によって保護され、繁殖
奈良時代末期に書かれた日本最古の和歌集『万葉集』には、この近辺にすでに鹿が生息していたことがわかる和歌が詠まれている。
春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし
(※訳 春日野に粟を蒔いたら、粟を食べに来る鹿を待ち続けるように通い続けましょうものを。あなたは社をお怨みになる)
佐伯赤麻呂/万葉集高円の秋野のうえの朝霧に妻呼ぶ牡鹿出で立つらむか
(※訳 秋の高円の野に朝霧が立ちこめている。こんな朝には妻を呼ぶ牡鹿が出で立って鳴いていることだろうか。)
大伴家持/万葉集
767年、春日大社が建てられた。
この時、日本神話に登場する建御雷神(タケミカヅチ)が鹿島神宮から白鹿に乗ってやってきたとされ、この逸話により鹿は『神鹿(しんろく)』と呼ばれるようになる。
鹿を傷つけたら処罰
春日大社と深い関係にある興福寺でも鹿は大切に扱われ、保護の対象となった。
鹿を傷つけた者は、厳しい処罰や刑罰の対処となったという。
『興福寺略年代記』によれば、1551年(天文20年)には、10歳の少女が投げた石が偶然にも鹿に当たり、鹿を殺してしまう事件が起きた。
この少女は大人と同じように処罰され、縄で縛られて興福寺の周囲を馬で一周させられた後、斬首されたという痛ましい出来事が記録されている。
江戸時代には鹿が人間を襲うこともあったと記録されており、下手に追い払うと鹿を傷つけてしまう恐れもあったことから、住民たちとの共存は非常に困難であった。
1670年(寛文10年)、旗本の溝口信勝が奈良奉行となったことで、この極端な保護政策は緩和された。
ちなみに現在でも奈良の鹿は天然記念物として保護の対象であり、故意に殺傷すると最高で懲役5年の刑罰が科される。(偶発的な交通事故などの場合はその対象とはされない)
農作物への被害
鹿による農作物の被害は頻発しており、1871年(明治4年)には放し飼いを止め、収容することとなった。
しかし、野生として奈良公園に生息している鹿は狭い場所に適応できず、餌不足や野犬の侵入、病気などで38頭にまで減少した。
1876年(明治9年)には再度放し飼いが行われたが、再び被害が増加した。
密漁が始まる
1891年(明治24年)には現在の奈良の鹿愛護会(当時は春日神鹿保護会)が設立された。
時代は戦中・戦後で食糧難であり、日々の栄養も不足がちだった人々は、飢えをしのぐために鹿を密漁していたという。
奈良の鹿愛護会の活動により、奈良公園の鹿は徐々に増えたが、第二次世界大戦の影響で再び食糧難の時代を迎え、増減の激しい時期を経験した。
現在の状態
戦後、社会の安定とともに鹿は再び増加し、現在では1,000頭前後で安定している。
奈良の鹿は全国的に知られるマスコット的な存在となり、奈良のシンボルとして愛されるようになった。
2023年の奈良公園の鹿生息頭数調査結果では、生息数は1,233頭となっている。
現在、この場所に住む鹿はすべて野生で生息している。
しかし、農作物を食べたり人間に被害を与えた鹿は、原則として「特別柵」と呼ばれる場所で一生を過ごすことになる。
この「特別柵」では、過密や栄養不足など動物の自由に抵触しているとの指摘もあるため、今後の対策の見直しに注目が集まっている。
さいごに
奈良公園とその鹿たちは、古都奈良の象徴であり、長い歴史を共に歩んできた特別な存在である。
鹿たちの存在は、奈良の豊かな自然と文化を体現しており、訪れる人々に癒しと感動を与え続けている。
次に奈良を訪れる際は、ぜひ鹿たちとの触れ合いを楽しんでほしい。
参考 :
2023年 奈良公園の鹿生息頭数調査結果
奈良公園公式サイト
文 / 草の実堂編集部
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