日本史

「お札の顔」 日本銀行券の肖像になった偉人たち 【22名一挙解説】

日本銀行券の肖像になった偉人たち

画像:皇居外苑にある楠木正成像 wiki c David Moore

令和6年7月3日、13年ぶりに新たな日本銀行券が発行された。

新紙幣の「顔」として選ばれたのは「北里柴三郎」「津田梅子」「渋沢栄一」の3名で、所縁のある地域や団体が大きな盛り上がりを見せたことは記憶に新しい。

これまで日本銀行券の肖像や図柄には、古代から近代までに活躍した、22名の人物や神々が採用されてきた。

今回は「紙幣の顔」となった人物全員の経歴や生涯に触れていきたい。

楠木正成:五銭紙幣

画像:い号五銭券 public domain

昭和19年11月に発行された「い五銭券」の表面には、皇居前広場の楠木正成(くすのきまさしげ)像が描かれている。

楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将だ。正成は後醍醐天皇に生涯忠義を尽くし、後醍醐天皇の皇子・護良親王らと連携して鎌倉幕府打倒に貢献した「兵法の天才」と称賛される人物である。

鎌倉時代「悪党」と呼ばれていた武士集団の中心的人物だった正成は、打倒鎌倉幕府を掲げる後醍醐天皇の信頼を得て戦に身を投じ、鎌倉幕府滅亡の一端を担ったが、その後、かつての同志であった足利尊氏に湊川の戦いで敗れて自刃し、死後は南朝に与した朝敵と見なされた。

江戸時代になると正成の忠臣ぶりが見直され、明治時代には軍師としての才能を讃えられてさらなる称賛を受け、天皇に最後まで忠誠を誓い討死覚悟で戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」として称えられるようになった。

五銭紙幣い号券は、太平洋戦争時の金属不足を理由に、五銭硬貨の代替品として発行された紙幣だ。戦時を象徴するような紙幣の表面に戦に出陣せんとする楠木正成像の図が採用された理由は、言わずもがなであろう。

大黒天

画像:日本銀行兌換銀券一円券(旧一円券) wiki c PHGCOM

明治18年5月に発行された「旧十円券」と、同年9月に発行された「旧一円券」「旧百円券」の表面、その翌年の明治19年1月に発行された「旧五円券」の裏面には、大黒天の姿が描かれている。

大黒天は元々、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラ(マハーは「大、偉大」カーラは「時もしくは黒」を意味する)が仏教に取り入れられたもので、日本では七福神の1柱とされ、大国主命と習合した神である。

マハーカーラは、いかめしい憤怒の表情で描かれるが、大国主命と習合した大黒天は柔和な表情で描かれることが一般的で、古くから豊穣や財福、または商売繁盛の神として恵比寿神と共に信仰されてきた。

図案制作をしたのは、お雇い外国人として紙幣製造の技術指導をしていたイタリアの版画家・エドアルド・キヨッソーネで、大黒天のモデルは当時印刷局の職員だった書家・平林由松とされている。

武内宿禰

画像:丙五円券 wiki c Heavy Frisker

明治22年3月発行の「改造一円券」、明治32年4月発行の「甲五円券」、大正5年12月発行の「丙五円券」、昭和18年12月発行の「い一円券」、そして昭和20年8月16日に発行された「丙二百円券」に描かれているのが、5代の天皇に仕えたという伝説上の忠臣、武内宿禰(たけのうちのすくね)だ。

武内宿禰は、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇という第12代から第16代の各天皇に仕え、紀氏や蘇我氏など多数の有力豪族の祖ともされる人物である。

日本全国の各地の神社で開運や長寿の神として祀られているが、共に紙幣に描かれた鳥取の宇部神社では、金運・財宝の神ともされている。

日本紙幣の肖像として採用されたのも、忠臣たるイメージがあってのことだ。
紙幣に描かれた武内宿禰の肖像画は、当時印刷部長であった佐田清次をモデルにして、エドアルド・キヨッソーネがデザインを担当した。

二宮尊徳

画像:A一円券 public domain

昭和21年3月に発行された「A一円券」に描かれている二宮尊徳は、江戸時代後期の農政家であり、道徳と経済の両立を説く報徳思想を唱えて「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した人物だ。

神奈川県小田原市の裕福な百姓の家に生まれた尊徳は、その幼名を金治郎という。幼名の方が聞き馴染みがあるという方も少なくないだろう。それもそのはず、全国各地の小学校にある二宮金治郎像は、尊徳の少年時代の逸話をモチーフに作られたのだ。

尊徳は、5歳の時に洪水の被害で実家が没落し、苦しい貧困生活の中で14歳の時に父を、16歳の時に母を亡くし、祖父の家に引き取られて兄弟とは離れ離れになってしまうという不遇の人生を送ってきた。

しかし、逆境に挫けることなく勤勉と倹約に努め、20歳の頃に始めた生家の再興を24歳の頃に成し遂げた。その後は農政家として小田原藩に仕え、晩年には幕府に召し抱えられるまでに出世したのだ。

尊徳が肖像となった一円券(A券)が発行されたのは、日本国民が飢えに苦しんでいた戦後食糧難の時代だ。

表面下部には雄鶏に麦や稲、トウモロコシなどの図が描かれているが、これは当時の時勢を反映したものであった。

菅原道真

画像:丁号五円券 public domain

戦前に発行された五円券のうち「改造券」「乙号券」「丁号券」「い号券」「ろ号券」、さらに大正6年11月に発行された「甲二十円券」にも描かれたのが、平安時代の学者であり、学問の神としても名高い菅原道真(すがわらの みちざね)だ。

晩年は同僚の策略によって、九州の大宰府に左遷されるという憂き目を見たが、道真は宇多天皇に重用された忠臣としても知られている。

道真は学者や政治家として天才的な才能を持ちながら、風流を好み、我が子を心から愛する人間味のある人物だったともいわれている。

道真が宇多天皇に対して生涯貫いた忠義は、美談として漢詩や文部省唱歌に歌われ、紙幣には道真の肖像と共に、彼が祭神として祀られる北野天満宮の拝殿が描かれた。

和気清麻呂

画像:改造十円券 wiki c Heavy Frisker

日本の歴代の十円紙幣のうち、明治23年に発行された「改造十円券」から昭和20年8月に発行された「ろ十円券」まで、6種類の紙幣の肖像となった和気清麻呂(わけ の きよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族だ。

称徳、光仁、桓武の3代の天皇に仕えた和気清麻呂は、女性天皇であった称徳天皇に取り入って皇位を得ようとした僧侶・道鏡の企みを、出世の道を蹴って阻止した人物でもある。

称徳天皇の不興を買った清麻呂は、別部穢麻呂と改名させられ、現在の鹿児島県東部に位置していた大隅国に島流しにされた。
これがかの有名な「宇佐八幡宮神託事件」である。

称徳天皇崩御後に京に戻ることを赦され、その後2代の天皇に誠意をもって尽くした清麻呂は、楠木正成とならぶ天皇の忠臣とみなされて十円紙幣の肖像に採用された。

各十円紙幣の一部には清麻呂の肖像と共に、清麻呂が主祭神として祀られる護王神社の本殿や、脚が不自由になった清麻呂が八幡宮を参拝して歩けるようになった逸話にならい、猪がデザインされている。

藤原鎌足

画像:丁二百円券 wiki c Heavy Friske

明治24年11月発行の「改造百円券」、明治33年12月発行の「甲百円券」、昭和6年7月発行の「乙二十円券」、昭和20年4月発行の「丁二百円券」には、飛鳥時代の貴族である藤原鎌足(ふじわら の かまたり)の肖像が描かれている。

鎌足は大化の改新の中心人物となった政治家で、改新後も後に天智天皇となった中大兄皇子の右腕として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた人物である。

鎌足が藤原姓を賜ったのは臨終に際した時であり、生前は中臣鎌足の名で通っていた。藤原氏の始祖である鎌足は、生涯に渡り天智天皇に忠義を尽くした忠臣として、紙幣の肖像に採用されたのだ。

鎌足は、紙幣にも描かれた奈良県桜井市の談山神社に主祭神として祀られている。

談山神社が鎮座する地で、かつて鎌足と中大兄皇子が大化の改新の談合を行ったと伝わっており、鎌足の長男が父の墓をこの地に移し、墓の上に十三重塔を立てたことが談山神社の発祥とされている。

高橋是清

画像:日本銀行券B50円券(表) public domain

昭和26年12月発行の「B五十円券」に描かれた高橋是清(たかはし これきよ)は、日本の第20代内閣総理大臣を務めた政治家だ。

二・二六事件にて暗殺された彼は、近代日本を代表する財政家としても知られており、日銀副総裁として日露戦争の戦費調達のために外債募集を成功させ、日銀総裁や大蔵大臣を務めた人物でもある。

高橋は幕府御用絵師で既婚者であった川村庄右衛門と、川村家に奉公に来ていた母きんの間に生まれ、生後まもなく仙台藩の足軽のもとに養子に出された。

成長後は明治学院の前身であるヘボン塾で学び、藩命によって海外留学することになるが、アメリカ人貿易商に騙されてアメリカの農園で奴隷として働いてから帰国後、文部省に入省し官僚兼教師となった。

その後、紆余曲折を経て日本銀行に入行して副総裁、総裁を務め、政治家として大蔵大臣を始めとする数々の大臣職と内閣総理大臣を務めたが、軍事予算抑制の恨みを買って、昭和11年2月26日に暗殺された。

高橋が暗殺された高橋邸は、東京都小金井市の「江戸東京たてもの園」に移築復元されており、殺害現場となった2階の寝室も見学が可能となっている。

聖徳太子

画像:聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券) public domain

「お札の顔」といえば、昭和世代の方なら聖徳太子を思い浮かべることが多いのではないだろうか。

聖徳太子は、昭和5年1月発行の「乙百円券」以降、「い百円券」「ろ百円券」「A百円券」「B千円券」「C五千円券」「C一万円券」と累計7回、四半世紀以上にわたって採用され、いずれも当時の最高額の紙幣だった。

聖徳太子が長年にわたって紙幣の顔となったのは、十七条憲法の制定や遣隋使の派遣など、国内外において偉大な業績を残したこと、国民の認知度が高いことなどが理由とされている。

さらに戦後、当時の日銀総裁がGHQに対して、聖徳太子は「和を以って貴しとなす」の言葉にあるように平和主義者の代表である、と主張したことから、戦後も紙幣の肖像として採用され続けた。

しかし近年、「聖徳太子は実在しなかった」という説が唱えられている。これは聖徳太子に関する史料が乏しいことが要因となっている。

聖徳太子非実在説に関しては様々な論があるが、生前の呼び名とされる厩戸(うまやど)王は実在の人物だが、これまでのイメージのような多くの偉業を成し遂げたスーパーマンではなかった、というのが主流となっている。

その学説を踏まえてか、日本史の教科書では実在が確認されている「聖徳太子(厩戸王)」として表記されるようになってきている。

板垣退助

画像:B百円券 表面 public domain

「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる板垣退助は、自由民権運動を推進して帝国議員を樹立させたことから「国会を創った男」の異名でも知られる人物だ。

戦前・戦後を通して国民的人気を誇った人物だったことから、昭和28年12月発行の日本銀行券「B百円券」および昭和23年3月発行の小額政府紙幣「五十銭券」に肖像が採用された。

土佐藩の武家の出身である板垣は、戊辰戦争では政府軍参謀として会津戦争で軍功を立て、明治維新後は帝国議会樹立や政党樹立、廃藩置県や徴兵制導入を推進するなど、国政や軍事の改革に尽力した人物だ。

私財を投じて倒幕運動や自由民権運動を推進したため当時から民衆に支持されたが、自ら全国各地に遊説に赴く勢力的な活動ゆえか、何度も命を狙われた人物でもある。

前述の名言は明治15年4月6日に起きた「岐阜遭難事件」で暴漢に刺された際に、取り押さえられた暴漢に対して発した言葉だ。何度も命を狙われながらも暗殺によって命を落とさずに済んだのは、板垣が若い頃に会得した柔術のおかげであるという。

岩倉具視

画像:C五百円券 表面 public domain

昭和26年4月発行の「B五百円券」と、昭和44年11月発行の「C五百円券」の肖像となったのは、公家出身の政治家であった岩倉具視(いわくら ともみ)だ。

「明治維新の立役者」として知られる岩倉具視の偉業といえば、「王政復古の大号令」と「岩倉使節団」がよく知られるところだろう。

「安政の大獄」にて、朝廷と幕府の関係を取り持つために奔走した岩倉は、幕府の味方と見なされたが、陰で倒幕活動を進め続け、大政奉還後に王政復古の大号令を行い、新政府の樹立と三職の人事を定めた。

明治維新後に岩倉は外務卿に就任し、不平等条約改正に向けて設立された欧米諸国を訪問する使節団の特命全権大使となる。この使節団がいわゆる「岩倉使節団」だ。この使節団には、新五千円札の肖像となった津田梅子も参加している。

大久保利通や木戸孝允、伊藤博文らを率いてアメリカの地に降り立った岩倉は、想像をはるかに超えたアメリカの発展ぶりにショックを受けた。

岩倉は断髪令が出た後も頑なに「日本人の魂」である髷を落とさず和装を着続けていたが、アメリカ留学中だった息子に説得されて覚悟を決め、シカゴで断髪し洋装を纏うようになったという。

日本武尊

画像:甲千円券 表面 wiki c Heavy Frisker

戦後インフレに対応するために、昭和20年8月17日に発行された当時の最高額紙幣「甲千円券」には、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が描かれている。

日本武尊は記紀などに伝わる古代の皇族であり、第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父とされる人物だ。

父の景行天皇の勅命により九州や東国を平定したといわれる英雄だが、『古事記』においては強過ぎたために景行天皇から恐れられ、父を慕いながらも父から最期まで遠ざけられたと伝わる悲劇の人物でもある。

「甲千円券」は、発効から1年足らずで失効となった短命の紙幣だ。日本武尊の肖像は高松宮宣仁親王をモデルにしてデザインされたもので、古墳時代の冠と鎧を身につけており、左側には日本武尊が主祭神として祀られる建部神社の本殿が描かれた。

伊藤博文

画像:C千円券 表面 public domain

昭和38年11月に発行された「C千円券」に描かれた伊藤博文は、日本の初代内閣総理大臣を務めた人物だ。

吉田松陰の松下村塾で学び、長州五傑の1人として明治維新前に既に海外留学を経験していた伊藤は、英語力があったことから外交に重用され、岩倉使節団にも副使として参加した。

初代内閣総理大臣を決めようとしていた明治18年当時、元々は貧農の生まれで、武士の身分を得たのも維新直前だった伊藤は、維新後に伯爵という爵位を得てはいたものの、ライバルである公卿・三条実美公爵と比べれば身分に歴然の差があった。

しかし、伊藤の盟友であった井上馨が宮中会議で発した「これからの総理は外国電報が読めなくてはならない」という言葉が、風向きを変えた。同席していた山縣有朋が井上の意見に賛成し、三条派の保守派も納得せざるを得なくなったことで、伊藤の初代内閣総理大臣任命が決まったのだ。

その後、伊藤は近代憲法制定や諸制度確立の中心人物として活躍し、第5、7、10代の内閣総理大臣も務めた。

生来の女好きの気質から私生活は破綻していたものの、金に無頓着で庶民にも気さくに話しかける人柄もあり、憎めない人物だったという。

夏目漱石

画像:D千円券 表面 public domain

昭和59年11月に発行された「D千円券」の肖像として採用された夏目漱石は、言わずと知れた明治・大正時代の文豪だ。

数々の名作を残した小説家として名高い漱石だが、実は作家として活動していたのはたったの11年間のことで、デビュー作の『吾輩は猫である』は、漱石が38歳の時に発表された作品だ。

漱石は病に悩まされる生涯を送った。3歳の時には種痘から疱瘡にかかって死にかけ、幸い命は取り留めたものの、顔に残った痕は生涯彼を悩ませた。

19歳の時には大学予備門予科二級の鍼灸試験を受ける予定であったが、虫垂炎をこじらせて腹膜炎を患い試験を受けられず落第した。
20歳の時には兄2人を相次いで結核で亡くし、その年の9月に急性トラホームを患って塾教師の仕事を辞めている。

兄たちを亡くした頃から神経衰弱の症状が出始め、以後定期的に訪れる抑うつ症状やストレス性胃痛に悩まされながらイギリス留学や教職を経て、神経衰弱の治療の一環として『吾輩は猫である』の執筆に至り、以後49歳で病死するまで職業作家として生きた。

日本銀行券D号券では、世界的な傾向に倣っていずれの額面でも肖像に文化人が採用された。

「D千円券」に描かれた夏目漱石の肖像は、明治天皇崩御に際して服喪中だった時の写真を基に描かれたため、黒ネクタイを着用している。

新渡戸稲造

画像:D五千円券 表面 public domain

昭和59年11月に発行された「D五千円券」の肖像となったのが、教育者であり思想家でもあった新渡戸稲造(にとべ いなぞう)だ。

「日本初の国際人」といわれる新渡戸は、盛岡藩主の用人を務めた藩士の三男で、幼い頃から西洋に憧れを抱いていた。
アメリカ留学やドイツ留学を経てから札幌農学校、京都帝国大学法科大学、東京女子大学など数々の有名校で教授や学長を務めた。

アメリカ人女性のメアリー・エルキントンと結婚して、メアリーと共に貧しい家の子供たちに向けて無償で授業を行う学校を設立するなど、それまで学ぶ場がなかなか与えられなかった女性や子供たちの学業も積極的に支援した。

妻の助けもありながら流麗な英文で書き上げた著書『武士道』は、世界的ベストセラーとなり、58歳の時には国際連盟事務次長に選ばれ、国際平和を叶えるために「太平洋の架け橋」となるべく尽力した。

「D五千円券」に描かれた新渡戸は、夏目漱石とは逆に慶事用の白いネクタイを着用している。

これは養女の結婚式に出席した際、妻と共に撮影した写真が原画とされたためである。

福澤諭吉

画像:D一万円券 表面 public domain

昭和59年11月に発行された「D一万円券」と、平成16年11月に発行された「E一万円券」に描かれた福沢諭吉は、夏目漱石・新渡戸稲造と同じく、日本を代表する文化人として紙幣の顔に採用された。

福澤が慶應義塾創設者であることは有名だが、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために伝染病研究所を創設したり、一橋大学の源流である商法講習所の創設に協力したりと、数々の教育施設や研究所の創設に関わった人物でもある。

福澤は啓蒙思想家でもあり、『学問のすゝめ』を始めとする多くの啓蒙書を著した。中津藩士時代に渡米を経験し、幕臣時代にヨーロッパ諸国を巡った福澤は、女性解放思想を日本にいち早く紹介し、男女の別にかかわらず人は平等であると説いた。

人格者としてのイメージが強い福澤だが、私生活では大酒飲みのヘビースモーカーであり、酒に酔って全裸で塾内をうろついていた時に緒方洪庵夫人に鉢合わせて一生のトラウマを作るなど、破天荒なエピソードにも事欠かない人物だ。

欧米の制度や文化を数多く日本に持ち込んでおり、生命保険や複式簿記は福沢が初めて日本に紹介したものである。

紫式部

画像:D二千円券 裏面 public domain

沖縄サミット開催と西暦2000年を記念して、平成12年(西暦2000年)7月19日に発行された「D二千円券」の裏面には、『源氏物語』の登場人物である光源氏と冷泉院に加えて、肖像とは異なるが作者の紫式部の図柄が描かれた。

『源氏物語』は世界最古の長編小説であり、紫式部自身は世界最古の女流作家だ。
財務省は「『源氏物語』は日本が世界に誇るべき文学作品であることから、二千円札の図柄として採用した」と公表している。

『源氏物語』は現代日本語訳だけでなく、英語訳やフランス語訳など様々な外国語訳版が出版されているが、その知名度に反して未だ多くが謎に包まれたままだ。

作者は紫式部だけではないという説や、間の巻が抜けているという説もあるが、それでも日本文学史上最高傑作の1つとして、1000年の時を越えて世界中の人々に読み継がれているのである。

野口英世

画像:E千円券 表面 public domain

平成16年11月に発行された「E千円券」に描かれた野口英世は、日本を代表する細菌学者の1人だ。

野口は福島県の郵便配達人の息子として生まれた。1歳の時に囲炉裏に落ちて負った火傷の後遺症により、左手に障害を持ったことから農作業をすることができず、母に学問で身を立てるように諭された。

母の言葉に導かれた野口は学業に励んで特待生として高等小学校に入学し、16歳になる年に教師や同級生が募った募金によって左手の手術を受けた。そして、不自由ながらも動かせるようになった自身の左手に感激し、医師を目指すようになる。

友人から資金援助を受けながら21歳で医師免許を取得した野口は、資金不足から研究者の道へ進むことを決心した。北里柴三郎が所長を務めていた伝染病研究所に勤務したこともある。

野口の本格的な研究者としての経歴は、渡米後から始まった。渡米する際には婚約者の持参金を渡航費に充てた。

北里の紹介で得たペンシルベニア大学医学部助手の職を経て、ロックフェラー医学研究所に移籍した野口は、梅毒や黄熱病などの病原体研究を精力的に行い世界的な名声を得た。

しかし、51歳の時に自身が黄熱病を発症してしまい、病没した。

樋口一葉

画像:E五千円券 表面 public domain

平成16年11月発行の「E五千円券」に描かれているのは、女性の文化人としては初めて日本銀行券の肖像となった樋口一葉だ。

当初E券は7月頃発行される予定であったが、樋口一葉の肖像の原版彫刻に時間がかかり、発効日が11月に延期された。

一葉は幼少時から利発で読書好きの少女だった。上流階級の子女に囲まれ気後れしながら過ごした塾生時代にも、歌会で最高点を取るなど華々しい評価を得たが、兄と父の死をきっかけに17歳で借金と樋口家を背負うことになり、生活苦から抜け出すために小説を書くことを決意する。

一葉が初めて原稿料を得たのは、明治25年に『うもれ木』という小説を雑誌に発表した時だ。その後、一時期作家業からは離れたが、執筆を再開して『たけくらべ』や『にごりえ』など多くの名作を書き上げ、その作風は森鴎外や幸田露伴など著名な文人にも評価された。

しかし、一葉の人生に成功による安定がもたらされることはなかった。小説家として評価され始めた矢先の明治29年に、肺結核で24歳の若さでこの世を去ったのだ。

一葉は近代以降では初の職業女流作家であり、女性の身でありながら小説家として生計を立てようとしたことは、当時では非常に思い切った決断だった。もし一葉が人並みに恵まれた人生を送っていれば、多くの名作は誕生しなかったのだろう。

北里柴三郎

画像:F千円券 表面 wiki c Goshuinnist

令和6年7月に発行された「F千円券」に描かれた北里柴三郎は、微生物学者として偉大な功績を残した人物であり、「近代日本医学の父」や「感染症学の巨星」の異名で知られる人物だ。

熊本藩の庄屋の家に生まれた北里は、藩立の西洋医学所に入学して医学の道に目覚め、東京医学校(現在の東京大学医学部)に進学した後に内務省衛生局に就職した。

その後、ドイツに留学した北里は、ドイツの細菌学者ロベルト・コッホと親しくなり、コッホに師事して破傷風菌の研究を行い大きな業績を上げ、「血清療法」も生み出した。

帰国後は、福澤諭吉の援助により創設された「伝染病研究所」で所長を務め、辞任後は「私立北里研究所」を創設し、様々な感染症の結成開発に取り組む。

恩人である福沢諭吉の没後は慶應義塾大学部医学科の学長に率先して就任し、自身が創設した「日本医師会」の初代会長としても組織運営に携わった。

北里が成した数多くの業績の中でも特に、破傷風菌の培養に成功して予防法と治療法の開発に貢献した功績と、ペスト菌の発見という功績は、人類に大きな希望をもたらした。

現在、北里が所長を務めた「伝染病研究所」は「東京大学医科学研究所」、自ら創設した「私立北里研究所」は「学校法人北里研究所」となって、北里の意志を継いだ研究者や医療者たちが、日々医学の進歩に貢献し続けている。

津田梅子

画像:F五千円券 表面 wiki c Goshuinnist

令和6年7月発行の「F五千円券」の肖像に選ばれた津田梅子は、日本で初めての女子留学生の1人であり、岩倉使節団の一員としてアメリカに渡ったのは7歳の誕生日を目前にした、明治4年12月23日のことだった。

幼くしてアメリカに渡ったため、11年後に日本に帰国した時には、すっかり日本語を忘れていたという。

公費で留学していたにもかかわらず、日本に戻ってきた女子留学生に官職は用意されていなかった。アメリカで梅子の母代わりとなってくれたランマン夫人は梅子を心配してアメリカに戻ってくるよう打診したが、梅子は「道徳的責任」を果たすために日本に留まることを決意した。

同時期に留学していた山川捨松や永井繁子は帰国後まもなく結婚したが、梅子は紹介された縁談を断り、日本で再会した伊藤博文の客分となって、教育者として1人身を立てていく道を選ぶ。

日本の女学校で英語教師として働いた後、梅子はふたたびアメリカに留学した。アメリカで生物学を修め、帰国後は再び教育者として働いた。

そして明治33年に、かつての留学仲間である捨松や新渡戸稲造ら多くの協力者の助力を得て、「女子英学塾」を創設したのだ。

その後、女子英学塾は津田塾大学となり、一時期は女子大学にして最難関大学と呼ばれるまでになった。津田塾大学の卒業生の多くが、今も様々な分野で男性と同等に活躍し続けているのである。

渋沢栄一

画像:F一万円券 表面 wiki c Goshuinnist

令和6年7月発行の「F一万円券」の肖像となったのは、「日本資本主義の父」といわれる渋沢栄一だ。

埼玉県深谷市の豪農の家に生まれた渋沢は、幼児の頃から父に漢文の手ほどきを受け、7歳頃には従兄の尾高惇忠のもとで『論語』や『日本外史』などを学ぶ早熟な子供だった。

21歳頃には江戸に出て尊皇攘夷の思想に目覚め、過激な討幕運動の計画を立てるが、従兄に説得されて計画を中止した。その後京都に出て、当時まだ朝議参与として京都に常駐していた一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えることになった。

その後、慶喜が将軍となり、それに伴い渋沢は幕臣となる。渋沢は慶喜の名代としてパリ万博に出席する徳川昭武の随員に抜擢され、フランスへとわたる。フランスやヨーロッパ各国での経験は、渋沢の人生に大きな変化をもたらした。

帰国後、静岡藩への出仕を経て大蔵省に務めた渋沢は、退官して33歳の頃に自ら設立に携わった第一国立銀行(後のみずほ銀行)の総監役に就任した。

その後も数々の銀行の設立に関わり重役を引き受け、様々な企業や施設の創業や運営を支援し、今日まで続く経済システムの構築や社会インフラの整備に尽力した。

渋沢は日本を代表する経済人かつ造幣局初代印刷局長として、これまで紙幣の肖像候補に何度も選ばれていたが、髭を生やしておらず、偽造防止の効果が低いとして採用されることはなかった。

しかし、紙幣の偽造防止技術が向上したことにより、晴れて新一万円札の顔に採用されることになったという。

紙幣の顔が選ばれる背景

画像:渋沢栄一と青い目の人形 public domain

世間ではキャッシュレス化が進み、現金を持ち歩かないという人も増えているが、紙幣の顔となる人物が選ばれた背景やその人物の経歴を知ると、各時代の時勢や興味深い人間関係を知ることができる。

皆さんも紙幣を手にした時は、肖像となった人物の生涯に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

参考文献
加来 耕三 (著)『紙幣の日本史

 

北森詩乃

北森詩乃

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娘に毎日振り回されながら在宅ライターをしている雑学好きのアラフォー主婦です。子育てが落ち着いたら趣味だった御朱印集めを再開したいと目論んでいます。目下の悩みの種はPTA。
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