日本の歴史教育では、中臣鎌足・中大兄皇子による「大化の改新」は詳細に取り扱われるが、同時代に起こった「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)については説明が乏しい場合が多い。
実はこれらの出来事には関連があり、白村江の戦いは大化の改新やそれ以降の日本の政治体制・外交に大きな影響を与えている。
この記事では、古代日本初の規模で海外へ派兵が行われた「白村江の戦い」について解説しよう。
当時の朝鮮半島の情勢
6世紀~7世紀当時の朝鮮半島には、新羅・百済・高句麗という三国があった。このうち、日本が親交を持っていたのが百済という国家であったことは、教科書などでも触れられるポイントだ。
百済は朝鮮半島南西部に位置しており、南東部には新羅、そして北部には高句麗という位置関係であった。ちなみに6世紀中頃までは、南部にさらに「伽耶諸国」や「任那」があった。百済と日本(当時の倭国)とは友好関係にあり、倭国の重臣が百済に駐在するなど、かなり関係が深いものであった。
さて、三国の力関係で言えば、新羅は百済から攻撃を受けていたほか、高句麗からもやや圧迫されているという状態であった。このような状況が一変したのは、朝鮮半島に絶大な影響力を持つ「唐」が、新羅を冊封国(従属国)として支援するようになってからであった。これにより新羅は、強力な支援者・後援者を得ることとなったのである。
660年、唐は自らの冊封国である新羅の保護を名目に、百済との戦争に及んだのである。
当時の日本の情勢
当時の日本(倭国)は、教科書でもたびたび取り上げられる「大化の改新」の最中であった。当時の倭国は唐・百済ともに交流のある友好国であり、百済との関係を維持するか、唐との関係を維持するかという重要な選択を迫られることとなった。
孝徳天皇と中大兄皇子の間で百済派・新羅(唐)派で意見の対立があったという説もあるが、どちらの人物がどちらの政策を支持したかについては現代でも明らかにはなっていない。
そのような中、660年に唐・新羅軍によって百済は滅亡してしまう。しかし、百済の将軍であった鬼室福信(きしつふくしん)は、百済を滅ぼした唐・新羅郡が高句麗に向かったタイミングを見計らい、「百済復興」を掲げ、友好国である倭国に救援を要請した。
これに応えた中大兄皇子は、軍を三派に分けて朝鮮半島南部へ出兵することとなったのである。
倭国・百済連合軍と新羅・唐連合軍の状況
倭国の派遣した軍は、第一派が兵1万余人、第二派が2万7千余人、第三派が1万余人と、合計で5万近い人員を派遣したことになる。
百済の復興を掲げる軍であるため百済の王子であった「豊璋」(余豊璋・豊章・扶余豊璋との記載もあるが、本記事では豊璋と記載)を立て、663年には戦いが始まった。
倭国・百済連合軍は百済南部の新羅軍を駆逐するなど、当初は順調な戦いであるかに見えたが、実のところ百済軍内部では意思統一も不十分で、豊璋と鬼室福信との間に対立が生じ、結果的に鬼室福信が処刑されるなど、ほぼ内紛状態であったとされる。
頼みの倭国軍も対外戦争の経験が乏しく、また戦略・作戦も充分に練られてはいなかったうえに、全体の兵力も唐・新羅連合軍に劣っていた。加えるならば装備や兵の練度についても、当時の超大国・唐の軍には到底太刀打ちできなかったろうという推定が一般的である。
白村江の戦いに臨む 倭国連合軍vs新羅連合軍
「白村江の戦い」という文字を見たことはあっても、実際の「白村江」がどのような場所で、どのような戦いであったのかということはあまり知られていない。
「白村江」は「白江」と呼ばれていた川が黄海へ流れ込む地域である。ちなみに「白江」は、現代の韓国では「錦江」や「白馬江」などの呼び名で知られる川とされている。このような地理条件もあり、唐・新羅連合軍は兵を水陸に分けて進軍した。総兵力は不明であるものの、一説によれば唐軍13万、新羅5万程度とするものもある。
さて、倭国・百済連合軍が内紛状態の収拾を付けつつ白村江へ進軍している間に、唐軍はこれだけの大軍にも関わらず10日も先に到着していた。兵力・装備にまさり、かつ先に敵の布陣を許したという圧倒的に不利な戦況に追い込まれた倭国・百済連合軍の必勝の戦略は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」(我々が積極的に攻撃すれば、敵は勝手に逃げるだろう)というものであった。
勇敢にも突撃を開始した倭国・百済連合軍であったが、結果は唐軍との海戦によって倭国・百済の水軍があえなく壊滅し、ほぼ同時に陸上戦においても唐・新羅連合軍が倭国・百済連合軍を破った。
これにより倭国・百済連合軍は撤退を余儀なくされたうえ、豊璋は高句麗へ亡命したとされる。
白村江の戦いの影響
白村江の戦いでは、倭国の軍は船舶・兵員に大規模な損害を出したが、最大の問題はそれよりもむしろ唐との関係悪化であった。
百済に救援の軍を派遣して新羅と対立することは、すなわち唐に敵対するという行為にほかならないことは、中大兄皇子も充分把握していたことであろう。しかしそのようなリスクを負ってでも出兵しなければいけない理由があった。一説には、朝鮮半島交易による利益と、朝鮮南部の鉄生産の権益が理由ともいわれる。
ともあれ、大敗を喫した戦闘の後に訪れる最悪のシナリオは、唐もしくは唐の援護を受けた新羅が日本へ侵攻してくるというものだった。中大兄皇子はこれに備えるため、すぐさま九州沿岸の防備を固めた。そのための政治制度の変更を伴う改革は一気に推し進められ、徴兵・徴税を確実に行うための戸籍制度(庚午年籍)の整備のほか、軍事・外交の拠点となる「太宰府」と、太宰府を保護するため亡命百済人の手により朝鮮式城郭「大野城」を築城し、さらに警備兵として「防人」の制度を整備した。
さて、冒頭にもわずかに触れた「大化の改新」については、(異説はあるが)日本国内を天皇と律令制を中心とした中央集権制にするための改革であったという教え方をするのが教科書の一般的なセオリーだ。
皮肉にも白村江の戦いでの敗北、それに伴い、圧倒的な軍事力の差がある唐との関係悪化という「国家存亡の危機」によって、中央集権的な日本国内の体制づくりがより一層加速したわけである。「律令制・天皇中心の中央集権国家を目指した」という解説に対して、それがなぜ当時の日本に必要だったのかという疑問は、この白村江の戦いの後に「大陸からの侵攻を恐れた」という理屈で説明がつくわけである。
なお、新羅は百済を滅ぼしたのち、唐への服属よりも朝鮮半島を統一支配するという野望を顕にしたため、唐と新羅との関係が悪化した。これにより唐は日本と和解し、今度は新羅と争うこととなったのである。
しかし九州沿岸に置かれた防衛・外交拠点である太宰府は、300年あまり後の「刀伊の入寇」や、およそ600年あまり後になる「元寇」の際に大いに活用されることになるほか、交易・行政の分野でも要所となった。
おわりに
白村江の戦いは、出兵数が不明な391年の倭・高句麗戦争を除けば、日本の歴史上でも初といってよい大規模な「海外への派兵」であったといえる。
地方豪族との戦いはそれなりに経験のあった倭国の軍であったが、大陸で周辺諸民族や周辺諸国との激戦をくぐり抜けてきた唐とは、残念ながら経験値の差があったと言わざるを得ないだろう。とはいえ、白村江の戦いそのものには敗北したものの、その敗戦がその後の政治や防衛、外交にもたらした影響は大きい。
白村江の戦いは、教科書では一行ほどの解説で終えられてしまうものもあるが、日本の歴史上見逃すことのできない重要な事件だったのである。
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4節目の副題に違和感。“白村江の戦いに望む倭国・新羅連合軍”
倭国・百済連合軍の間違いでは?
それとも“白村江の戦いに望む倭国(・百済連合軍)・(唐・)新羅連合軍”の括弧内を略したのか?
だとすると、なんと解りづらい言葉選びだろうか。
漢字の使い方も変。
“戦いに望む”ではなく“戦いに臨む”が的した表現だと思いますが。
ご指摘ありがとうございます。
修正させていただきました。