安土桃山時代

わずか15歳で処刑された「東国一の美女」駒姫の最期と父・最上義光の苦悩

「東国一の美少女」と称えられた駒姫(こまひめ)は、安土桃山時代に生きた女性です。

出羽国(現在の山形県)に生まれ、その美しさと気品は都にまで伝わったとされています。

やがて、天下人・豊臣秀吉の甥で、関白を務めていた豊臣秀次(ひでつぐ)の側室候補として上洛しましたが、その直後、15歳という若さで真夏の京都・三条河原において処刑されてしまいました。

罪を犯したわけでもない駒姫が、なぜ命を奪われなければならなかったのか。その悲劇の経緯をたどってみたいと思います。

駒姫像(専称寺蔵)public domain

教養も兼ね備えた美少女

駒姫は、出羽国(現在の山形県)の戦国大名・最上義光(もがみ よしあき)の娘です。
義光は、最上家を地方の一勢力から、東北有数の大名へと成長させた人物として知られています。

その娘である駒姫は、誰もが認める美少女であるうえに、教養も兼ね備えていました。

江戸時代、秋田の戸部正直によって記された『奥羽永慶軍記』によると

画像 : 『奥羽永慶軍記』より

という一文があり、容色に優れているだけではなく、琵琶を演奏したり歌を詠んだりするなど、才媛だったことがうかがい知れます。

そんな才色兼備の駒姫に心を奪われたと伝えられているのが、豊臣秀吉の甥・秀次です。

画像:豊臣秀次像 瑞雲寺所蔵 public domain

天正19年(1591年)、豊臣秀吉による天下統一の最後の戦いとされる「九戸政実の乱」が平定されたのち、秀吉の甥・秀次は帰京の途中、最上義光の山形城に立ち寄りました。

その際、当時11歳ほどだった駒姫の美貌に心を奪われ、「側室にしたい」と強く望んだと伝えられています(なお、実際に面会したのではなく、美しさの噂を聞いて望んだという説もあります)。

義光は「娘はまだ幼い」としてこれを断りましたが、秀次の求めはやまず、最終的には「15歳になったら」との条件で、しぶしぶ承諾したとされています(反対に、義光のほうから将来を見越して駒姫を差し出したという説も)。

豊臣秀次切腹事件

画像 : 最上義光肖像画 wiki c Odaodaoda1128

文禄4年(1595)、15歳になった駒姫は、豊臣秀次の側室となるため、最上家から上洛の途につきました。

山形から京都までの道のりは長く、まずは最上家の京都屋敷で一息ついてから、豊臣秀次の居館である聚楽第に移り、「お伊万の方」という名を与えられました。

ところが、同年6月末に突然、秀次に謀反の疑いがかけられます。

秀次が、なぜ謀反の罪を問われたのかについては諸説ありますが、通説としては、秀吉が実子・秀頼に家督を譲るために、あらぬ疑いをかけて秀次に切腹を命じたとされています。

そのほか、秀吉との関係悪化や、秀次の素行の悪さが原因とする説もありますが、詳細な事情は今もはっきりしていません。

そして同年7月15日、秀次は高野山青巌寺にて、秀吉の命により切腹しました。

画像 : (月岡芳年『月百姿』)高野山の豊臣秀次 public domain

『※1 兼見卿記(かねみきょうき)』や『※2 言経卿記(ときつねきょうき)』などの史料には、「秀次は自らの潔白を証明するために、高野山へ自発的に赴いた」「実際には、秀吉は使用人の帯同を許可し、秀次を生かしておく意向だった」といった記述も見られます。

また、「秀吉が切腹を命じたのではなく、秀次自身が潔白を示すために自ら命を絶った」という説もあります。

秀次は享年28でした。

※1『兼見卿記』:戦国〜江戸時代前期の神道家・吉田兼見の日記。神事関係以外にも政治情勢,社会、文芸など多方面の記事が含まれた史料
※2『言経卿記』:戦国末から江戸初期の公家・山科言経の日記。市井の生活記録として社会・風俗・年中行事・文芸などについての記載を多く残す

秀次のみならず、妻妾や侍女たちまで処刑

しかし、秀次の切腹で幕が引かれることはありませんでした。

縁座(家族や親族も罪に問われる)や、連座(家臣や関係者も処罰される)によって、駒姫をはじめとする妻妾や、侍女たちも処刑されることになったのです。

この経緯についても諸説ありますが、駒姫は「まだ秀次と対面していなかった」ともいわれています。

そして、秀次が切腹した7月15日から約3週間後の8月2日、駒姫を含む秀次の妻妾や子どもたち、あわせて38〜39名が処刑されたのです。

その際、一行は処刑前に牛車で市中を引き回され、『関白雙紙』によれば、髪をおろして白い経帷子(きょうかたびら)をまとった姿であったと記されています。

画像 : 京都・三条大橋 wiki c Yanajin33

駒姫は、三条河原に到着した牛車から降ろされ、河原へと引き立てられました。
そこには秀次の首が据えられ、妻妾たちは一人ひとり、それに手を合わせるよう命じられたといいます。

このとき、父・最上義光は秀吉に対して必死に助命嘆願を行っていました。
わずか15歳の駒姫を、上洛したばかりで処刑するのはあまりにも酷であるとして、各方面からも同様に助命を求める声が上がっていたようです。

通説では、秀吉の側室である淀殿の取りなしもあって、秀吉はようやく命を救う決断をし、「鎌倉で尼となることを条件に助命する」として、早馬を処刑場へ向かわせたといいます。

しかし、その知らせはわずかに遅れ、あと一町(100m)ほどの差で、駒姫は処刑されてしまったのです。

駒姫(お伊万の方)は、辞世の句を残しています。

「罪をきる 弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」

(意訳)罪なき私が、阿弥陀仏の剣にかかって命を落とすというのに、どうして女性にあるとされる五つの障りなどがあろうか。私は極楽浄土へ行けるに違いない。

※五つの障りとは、一部の仏教思想に見られるもので、女性は梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏陀になることができないとする考え方です。「女性は成仏できない」という教義の一部とされていました。

15歳の少女でありながら、我が身を達観したような句です。

地獄の鬼の責め ~情け容赦ない仕打ち

画像 : 豊臣秀吉 public domain

処刑後、妻妾たちの遺体は無造作に投げ入れられ、遺族が引き取りを願っても許されませんでした。
すべての遺体は一つにまとめられ、「畜生塚」や「悪逆塚」といった名で埋葬されたといいます。

このような無慈悲な仕打ちは、太田牛一が記した豊臣秀吉の一代記『大かうさまぐんきのうち』においても、「地獄の鬼の責めとはこのことか」と記されています。

妻妾や侍女だけでなく、幼い子どもまでもが命を奪われるという残酷な処断は、見せしめの範疇を超えていました。
この事件をきっかけに、豊臣政権の権威に陰りが見え始めたともいわれています。

ただし、全員が処刑されたわけではありません。
たとえば、秀次の正室で池田恒興の娘だった若政所など、一部には処刑を免れた者もいました。

秀次のもう一人の正室である一の台が、聚楽第にあった関白家の財産を実家の菊亭家に移したり、各方面に貸し付けたりしていたことが、謀反の決定的証拠とされたという説もあり、若政所は聚楽第に住んでいなかったため、処刑を免れたともいわれています。

そうだとすれば、上洛したばかりの駒姫に処罰が及ぶ道理はなかったはずですが、命は奪われてしまったのです。

『後陽成天皇 聚楽第 行幸図』(堺市博物館収蔵)public domain

父・最上義光は、愛娘の最期を屋敷で知らされ、『最上記』には「愁傷限りなく、湯水も喉を通らずに嘆き臥した」と記されています。

さらに山形では、飛脚によって娘の死を知った駒姫の母が、2週間後に後を追うようにして亡くなりました(一説には自害とも)。

最愛の娘と妻を矢継ぎ早に失った義光の怒りや悲しみは、いかばかりだったでしょうか。

当然、憎しみの矛先は豊臣側へ向かい、後の関ヶ原の戦いでは東軍・徳川方に加担し、会津の上杉景勝と戦って武功を挙げ、義光は57万石の大大名へと躍進することになったのです。

京都の瑞泉寺と山形の専称寺には、駒姫を弔う墓が

江戸時代、京都の三条河原は、処刑場や遺体の晒し場とされていました。

その三条大橋のたもとにある瑞泉寺は、京都の豪商・角倉了以が、豊臣秀次とその一族の菩提を弔うために建立した寺です。

画像:京都三条にある瑞泉寺境内にある秀次の墓。中央には碑銘の削られた中空の石櫃がある(撮影:高野晃彰)

一族の処刑から16年後、角倉了以は高瀬川の開削工事の際に、荒れ果てた塚と石塔を発見し、深く心を痛めました。

彼は僧・桂叔と相談し、石碑に刻まれていた「悪逆」の二文字を削り取り、墓域を整備して新たな墓碑を建立し、「慈舟山瑞泉寺」と号したといわれています。

本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されており、寺宝として、秀次やその妻・妾たちの辞世の和歌も伝えられています。

境内には、妻妾の墓や、犠牲者49人の五輪塔が建てられています。

画像 : 専称寺にある駒姫の墓と黒髪塚 wiki Koda6029

また、山形県山形市にある専称寺には、最上義光が愛娘の死を悼んで建立した壮麗な伽藍があります。

境内の奥には、駒姫の墓とともに、遺髪を納めた塚に供養石を置いた「黒髪塚」が、今も静かに佇んでいます。

参考:
駒姫―三条河原異聞―武内涼/著
戦国武将の本当にあった怖い話 (知的生きかた文庫)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

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桃配伝子

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コメント

    • 名無しさん
    • 2025年 8月 02日 6:00am

    久戸→九戸ね

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      • 草の実堂編集部
      • 2025年 8月 02日 8:20am

      ご指摘ありがとうございます。
      修正させていただきました。

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