織田家の正統な後継者となる

画像:織田秀信像(滋賀県大津市聖衆来迎寺蔵) public domain
1582年(天正10年)、織田信長は京都・本能寺にて明智光秀に討たれた。
歴史に名高い「本能寺の変」である。
織田秀信(おだひでのぶ)は、この2年前に信長の嫡子で後継者であった信忠の長子として生まれ、幼名を三法師といった。
本能寺の変では、彼の父・信忠も信長救援のため京都に留まり、やがて自刃して果てた。
その後、中国地方から急ぎ引き返した秀吉が「中国大返し」を敢行し、山崎の合戦で明智光秀を滅ぼすと、三法師は歴史の表舞台に姿を現すことになる。
織田家の重臣や一族が清洲城に集まり、今後の政権運営と後継者の選定を協議した。
これがいわゆる「清洲会議」である。
当時、候補として名前が挙がったのは信長の次男・信雄や、三男・信孝であった。
しかし、信長は生前すでに嫡男・信忠に家督を譲っていたため、その正統性を継ぐ人物として信忠の遺児・三法師(のちの秀信)が注目されたのである。
後世の軍記物語では「秀吉が三法師を担ぎ上げて主導権を奪った」と描かれることが多いが、実際には信長の意思を踏まえて三法師を後継とする方針が既定路線であったとする説が有力である。
とはいえ、この決定に際して秀吉が積極的に周旋し、会議の流れを自らに有利に導いたことも確かであろう。
こうして三歳の幼子・三法師が織田家の家督を継ぐこととなり、信雄と信孝がその後見役として位置づけられた。
この瞬間から、織田政権の実権をめぐる駆け引きが本格化していくのである。
三法師をめぐる確執で柴田勝家・信孝が滅亡

画像:清洲会議で三法師を擁する羽柴秀吉『絵本太閤記』 public domain
こうして三法師は、わずか三歳にして織田弾正忠家の家督を相続した。
その領地として与えられたのは近江国中郡20万石にすぎなかったが、本能寺の変直前の織田領は800万石を優に超えていたというから、直轄領としてはあまりにも少なかった。
さらに清洲会議の取り決めでは、三法師は安土へ戻ることとされていた。
ところが信孝は、彼を岐阜城に留め置いて監視を続けた。
おそらく信孝としては「三法師を自由にすれば秀吉に利用される」と考えたのであろう。
当然のことながら、これに納得できない秀吉は、必然的に信孝と対立することになる。
やがて信孝は柴田勝家と結び、秀吉包囲の構えを取ったが、賤ヶ岳の合戦で敗北。
勝家は自害し、信孝も失脚して切腹を強いられ、三法師をめぐる抗争は秀吉の勝利で幕を閉じたのである。
秀吉の「関白宣下」で主従関係の立場が逆転

画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain
この後、三法師の後見には、織田家の家督代理となった信雄が就いた。
しかし信雄は、小牧・長久手の戦いで秀吉と戦った末に和睦し、やがて臣従することになる。
1585年(天正13年)、秀吉は朝廷から関白宣下を受け、翌年には豊臣姓を賜り、太政大臣に任ぜられた。
こうして織田家の威勢は衰え、豊臣政権の権威が織田を凌駕することとなった。
そして、1590年(天正18年)の小田原征伐後の所領替えをめぐる問題で信雄が改易されると、すでに元服して「織田秀信」と名乗っていた三法師は、改めて織田宗家の当主に据えられた。
とはいえ、その実態は豊臣政権の庇護を受ける一大名として存続するにすぎなかった。
豊臣大名としての生き方を貫いた生涯

画像:金華山の山上にある模擬天守と岐阜城資料館 public domain
1592年(文禄元年)9月、関白豊臣秀次の弟・秀勝が没すると、その遺領である美濃国13万石と岐阜城は秀信に与えられ、やがて「岐阜中納言」と称されるようになった。
なお、秀信の「秀」の字は秀吉から賜ったものであり、加えて羽柴姓・豊臣姓も授けられている。
このように秀吉は、秀信を旧主筋の子孫として冷遇することなく、むしろ厚遇した。
秀信もまた、その厚意に応えるかのように、常に豊臣大名としての立場を貫いた。
1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いが勃発すると、豊臣家を守る立場から西軍に属し、岐阜城に籠城して多勢の東軍を相手に奮戦した。
しかし兵力差はいかんともしがたく、城は落ちて降伏するに至る。
このとき、福島正則が自らの武功と引き換えに助命を嘆願したと伝えられ、秀信の命は救われた。
ただし美濃十三万石は没収され、秀信は高野山へと蟄居を命じられることになった。

画像:織田秀信髪切塚(岐阜県岐阜市円徳寺境内) public domain
高野山では、かつて祖父・信長が同地を攻めた因縁から当初は入山を拒まれ、ようやく受け入れられた後も冷遇され、安穏な隠棲生活とは程遠い境遇であった。
そして、関ケ原から5年後の1605年(慶長10年)5月、秀信は高野山を下り(追放ともされる)山麓に移ったのち、わずか26歳で生涯を閉じた。
死因については病没説のほか、一説には自害であったとも伝えられている。
織田家の当主でありながら、織田氏に取って代わった秀吉を恨むことなく生き抜いた秀信。
その生涯には、どこか清々しさを帯びた清涼の風が吹き渡っているように感じられるのではないだろうか。
※参考文献
和田裕弘著『織田信忠―天下人の嫡男』中公新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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