上杉謙信が「義」の武将という評価は真実か

画像:上杉謙信 public domain
武田信玄の宿敵として知られ、「戦国最強」とも称される上杉謙信。
その人物像を語るうえで、欠かすことのできない言葉が「義」である。
領土的野心を持たず、私利私欲を排した「正義の戦い」を貫いた武将。
それが、長らく語られてきた謙信像だった。
しかし近年、こうした通説に疑問を投げかける研究が現れている。
謙信による関東出兵は、単なる義戦ではなく、越後国内の農民を救済するための経済政策であり、さらには敵地で捕らえた百姓を奴隷として売却していた可能性が指摘されているのだ。
もしそれが事実であるならば、謙信はもはや無欲清廉の「義将」とは言えなくなる。
今回は、上杉謙信の「義」という評価は果たして実像に即したものなのか、その再検証を試みていきたい。
多くの戦国武将が平然と行っていた「乱どり・人とり」

画像:足軽(雑兵物語)public domain
戦国時代の軍隊では、兵士の多くが農民であり、一般に武士が三割、農民が七割を占めていたとされる。
「足軽」と呼ばれた彼らは、戦場でいかに功名を重ねたとしても、所領を与えられることはほとんどなかった。
乱世とはいえ、足軽から天下人にまで上り詰めた例は豊臣秀吉くらいなものであり、ほとんどの足軽は生涯、雑兵のままで終わっている。
しかし、そのような足軽たちにも、合戦における一種の「楽しみ」が存在した。
それが「乱どり」や「人とり」と呼ばれる行為である。

画像:『大坂夏の陣図屏風』 public domain
「乱どり」とは乱暴狼藉を意味し、敵地の町や村で財物を奪い、女性を襲うなどの行為を指す。
また「人とり」とは、人々を狩り出して捕らえ、奴隷として売り払う行為であった。
これらの「乱どり」「人とり」は、多くの戦国大名によって黙認、あるいは事実上容認されていたとされる。
これを比較的厳しく禁じた数少ない例として挙げられるのが、兵農分離を進め、足軽を職業軍人として俸禄で養った織田信長である。
つまり、兵農分離が十分に進んでいなかった多くの戦国大名のもとでは、「乱どり」「人とり」が事実上の報酬として機能していたということになる。
それは上杉謙信に限らず、徳川家康、伊達政宗、武田信玄といった名だたる戦国大名においても、例外ではなかった。

画像 : 武田信玄 public domain
例えば武田信玄は、信濃攻略にあたり、陥落させた城の城兵を殺害し、捕らえた農民や女性を金山で酷使したり、娼婦としたり、あるいは奴婢として売却したと伝えられている。
その一例が、現在の佐久市にあたる志賀城の攻略である。
信玄は志賀城を落とすと、城内にいた農民や女性を甲斐へ連行し、奴婢として扱った、あるいは売り払ったとされている。
徳川家康もまた、大坂夏の陣に際して、雑兵たちによる大規模な「乱取り」を黙認した。
徳川方の大久保彦左衛門は、『三河物語』の中で、落城後に城を脱出した女性の多くが売り払われたと記している。
さらに『大坂夏の陣図屏風』には、逃げ惑う人々や捕らえられた女性の姿が描かれているが、そこに表されているのは大坂城からの落城者だけではなく、城下町の商家の人々も含まれていたのである。
正義の戦いを貫くため、人身売買や略奪を嫌った謙信

画像 : 「芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎(月岡芳年作)」public domain
では、「義」の武将と称された上杉謙信の場合は、どうであったのだろうか。
謙信の「人とり」が語られる際、しばしば引き合いに出されるのが、関東出兵期、常陸国に所在する小田城が開城した前後の出来事である。
史料には、春の最中に人が売買され、その値が廿文から卅文ほどであった、という趣旨の記述が見える。
廿文とは二十文、卅文とは三十文を指す。
戦国期の労賃や物価水準を踏まえるなら、現代の感覚では数百円から2000円程度に相当する幅の金額と考えられ、当時の取引としてはかなり低い水準であったことがうかがえる。
この価格については、合戦が相次いだ結果、人が大量に発生し、取引条件が崩れたためだと説明されることがある。
一方で、別の見方も成り立つ。
すなわちこの金額は、単なる投げ売りではなく、売られた人の家族や縁者が身代金として買い戻すことを前提にした、現実的な価格設定だったのではないか、という考え方である。

画像 : 上杉神社内にある上杉謙信像 public domain
謙信は、正義を守るために筋目を通すのであれば、軍勢を率いてどこへでも駆けつけると公言しており、関東諸将の要請に応じて繰り返し出兵した「越山」など、実際にその言葉どおりの行動を取ってきた。
また、基本的には領土や金銭に対して無欲で、人狩りや略奪を忌み嫌った人物でもあった。
すなわち、謙信にとって戦いとはあくまで「正義の戦い」であり、人身売買や略奪によってその正戦を汚すことは、極力避けるべきものだったのである。
小田城での人身売買も、あえて低価格に設定し、利益が出ないよう規制することで、被害を最小限にとどめようとした措置であったと考えられる。
そのように考えると、謙信はやはり無欲清廉の「義将」と呼ぶにふさわしいのではないだろうか。
※参考文献
池享著 『上杉謙信の本音: 関東支配の理想と現実』吉川弘文館刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























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