上田重安 の生い立ち
上田重安(うえだしげやす)は、永禄6年(1563年)に尾張にて丹羽長秀の家臣・上田重元の子として生まれました。
祖父の代から3代に渡って続いた丹羽長秀の家臣で、元服後、重康も丹羽家の臣として付き従い転戦したと伝わっています。
上田重安よりも、上田宗箇(うえだそうこ)の名の方がご存知の方も多いかも知れません。
宗箇とは重安が関ケ原の合戦の後、西軍に与した事を己を憚り、徳川方に恭順の意を示すため剃髪した際に名乗った号です。
重安が創始したこの武家茶道は、上田宗箇流として今日まで代々受け継がれています。
信長・秀吉との関係と武功
重安の名が挙げれれる有名な武勲としては、まず天正10年(1582年)6月に津田信澄(織田信長の甥)の首級を挙げたことが知られています。
これは本能寺の変の後、主君・長秀と神戸信孝(織田信長の三男)が行った大坂城(石山城)千貫櫓の攻撃に従軍した重安が、その際に謀反人・明智光秀との間に疑義を持たれた信澄を討ち取ったとされているものです。
齢二十歳前の若さにして、大変な武功と言えますが、一説には自刃した信澄の首を持って退出したという説もあり、定かではありません。
しかし、天正13年(1585年)に主君・長秀が亡くなると、子の丹羽長重は豊臣秀吉によって減封されたため、その際に秀吉の直臣に取り立てられ、越前国に1万石の領地を拝す大名となりました。
重安は正室に、秀吉の妻・高台院(ねね)の従弟にあたる杉原長房の娘を迎えています。また文禄3年7月(1594年9月)には、従五位下・主水正に叙任され、豊臣姓を授与されていますので、武士として一定の評価を受けていたことは間違いがなさそうです。
またこの時期に、豊臣政権の茶道であった千利休、続いて古田織部に師事したと伝わっています。
浅野家家臣としての功名
慶長5年(1600年の関ヶ原の戦い)に際しては、旧主・丹羽家や自身の秀吉への恩義もあり、西軍に与しました。
このため戦後は領地を没収され、徳川に恭順の意を示すために剃髪・宗箇を名乗ったと伝えられています。
やがて蜂須賀家正に請われて、その領地の阿波に招かれ、茶人・造園家としての才を発揮して徳島城表御殿庭園を手掛けています。
やがて、妻の縁戚にあたる紀州藩主・浅野幸長の取り成しで徳川家康から赦免を受けた重安は、浅野家の家臣となって1万石を領しました。そして和歌山城でも城内の庭園の作庭を行っています。
巷説によると、この浅野家への登用は武士としてではなく、茶人としての才を評価されての事だったため、一部の家臣たちからの羨望故の侮りを受けたとされています。しかし、幸長からも自重するよう諭された重安はその屈辱に耐えたとされています。
そして、慶長19年(1614年)に大坂の陣が勃発すると主君に従い徳川方として従軍し、翌年(1615年)の樫井の戦いで、大阪方の敵将・塙直之の首級を挙げる武功を立て、浅野家中のみならず、将軍徳川秀忠や家康から称賛され、大いに面目を果たしたと伝えられています。
武人であり茶人
元和5年(1619年)に主家・浅野家が和歌山から安芸・広島に移封されると重安もその地に1万2,000石を領し、以後は、茶道と造園に没頭する日々を過ごしています。
安芸・広島でも浅野家の別邸である縮景園を作庭し、幕府からも要請を受けて名古屋城二の丸庭園も担当しています。
茶道の師であった千利休や古田織部が、その影響力の強さ故に政に深く関与し、結果自らの命を落とした事と比べると、慶安3年(1650年)88歳まで生きた重安は、最も道を究めた武人であり且つ茶人だったのかも知れません。
この記事へのコメントはありません。