鬼武蔵の異名
森長可(もりながよし)は「鬼武蔵」の異名を持ち、若き頃より織田信長、ついで豊臣秀吉に仕えた剛勇の武将・大名です。
異名の「鬼武蔵」とは、主君信長との逸話に端を発しています。
それは、信長が京に居を構えたおり、近江の瀬田に関所を設置して京へと上る人々を管理させたことが契機でした。
あるときこの関所に差し掛かった長可は、関所を守る衛兵から馬を降りて名乗るように求められましたが、急いでいると言ってそのままと通ろうとしました。衛兵は務め上、当然それを制止しようとしましたが激昂した長可は、いきなり衛兵を斬り捨て、その行為を信長に伝えました。
これを聞いた信長は、長可を咎める事はせず、むしろその行いを称えるかのように、昔同じように五条大橋で人を斬った武蔵坊弁慶に準え、長可に今後は「武蔵守」を名乗るよう伝えたと言われています。
このことから自ら「武蔵」を称することになった長可を、その激しさ・武威から世人は「鬼武蔵」と呼ぶようになったと伝えられています。
20万石の大名へ
長可は、永禄元年(1558年)に森可成の次男として生まれました。
その後、元亀元年(1570年)に父・可成、長兄・可隆が戦死したことで、次男でありながら僅か13歳で家督と遺領を継いで美濃・金山城主となり、信長に仕えました。
因みに長可の弟も信長の家臣となりましたが、それが信長の小姓として有名なあの森蘭丸です。
長可は15歳の元亀4年(1573年)、第二次長島一向一揆攻めに信長の息子・信忠の下で初陣を飾ったとされています。これを皮切りに信忠の与力武将として多くの戦に従軍し、武功を挙げたと伝えられています。
長可は天正10年(1582年)の甲州攻めにおいて、団忠正と並んで先鋒を務め、木曽口から武田領へと攻め込みました。
この戦で松尾城の小笠原信嶺を下すなどの武功を挙げ、武田氏の滅亡に貢献、戦後には信長から信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)及び海津城の20万石を与えられました。
織田家中にあっても20代で20万石を領したことは異例で信長の寵愛振りが窺えました。
本能寺の変の前後
長可は、天正10年(1582年)4月には居城となった海津城を拠点として信濃の統治を開始し、越後の上杉氏と呼応した一揆を鎮圧、その平定に務めました。
又、長可は、同年5月には越後へと侵攻しました。これは越中に侵攻していた柴田勝家の魚津城攻めを支援する動きを兼ねた侵攻であり、居城の春日山城防衛を優先せざるを得なくなった景勝を魚津城の救援に向かえない状況に追い込みました。結果、魚津城は勝家に落され、景勝は苦境に陥ることになりました。
しかし、6月2日に起こった本能寺の変で状況は一変します。
越後へ進行していた長可は信長の死によって臣従させていた信濃の国人たちが離反、何とか人質を楯に取って脱出を果たし旧領の金山への撤退を成功させました。
「人間無骨」と「百段」
信長没後に開かれた清洲会議で秀吉が実権を握ると、長可は池田恒興と共に秀吉へと臣従しました。
徳川家康・織田信雄と秀吉が争う小牧・長久手の戦いでは、徳川の井伊直政勢と激戦を演じましたが、長可は池田恒興と共に討死することとなりました。
長可を討ち取ったのは水野勝成の家臣の鉄砲足軽で、頭を打たれた即死であったとされています。
長可は、「人間無骨」という銘の十文字槍を愛用していたと言われています。
この意味は、その槍の前では「骨などないも同然」という凄まじい鋭さを備えていた事から付けられたものとされていて、長可は初陣にも関わらず、この槍を振るう
と、なんと27にも及んだ首級を挙げたとされています。
また、長可の愛馬は「百段」と名付けられており、その由来は居城とした金山城の石段100段を一気に駆け抜けることができることから付けられたとも言われていました。
これらも剛勇の武将にふさわしい逸話として伝えられています。
彼にはもっとハチャメチャなピソードがあるだろ
ライターさんに派手なエピソードとして第2段を要望しておきます。ありがとうございます。
品のの国→信濃の国
かな?
修正いたしました。
ご指摘ありがとうございます。m(_ _)m