戦国の風雲児
織田信長(おだのぶなが)は、天下統一へあと一歩のところまで迫った戦国時代の風雲児である。
尾張国織田弾正忠家の当主・織田信秀の嫡男でありながら、若い頃は常識やルールを守らない問題児で「大うつけ」と呼ばれていた。
父親の葬儀で、いつもの大うつけの服装で現れ抹香を位牌に投げつけたというエピソードも有名である。
比叡山延暦寺の焼き討ちに象徴されるように「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という短気で怖い人物というのが信長のイメージである。
今回は信長は本当に短気だったのか?について検証してみた。
イメージとは異なる信長
当時の上級武士の子息たちは蹴鞠(けまり)など上品な遊びを取り入れていたが、信長は剣術・槍・弓・馬術などの鍛錬を欠かさなかったという。
教育係の平手政秀は信長の奇行が少しでも収まればと諌死したが、信長はこの死に大いに嘆き悲しみ小牧に政秀寺を建立してその霊を手厚く弔わせたという。
信長が「魔王」と称された大きな要因となっている「比叡山延暦寺の焼き討ち」だが、近年の研究では今まで知られていたほど残虐非道なものではなかったという見方も出てきている。
通説では僧兵・僧侶・女・子供まで数千人が殺されたことになっているが、発掘調査で大規模な白骨が出ることもなく、数字が操作された可能性があるという見立てもある。
信長にことごとく反発し、信長包囲網を敷いた将軍・足利義昭に対しても信長から何度も和睦の提案をしているが義昭がそれを拒否。
その後、降参した義昭に対して信長は命を奪わずに京都追放にとどめている。これは将軍である義昭を殺してしまうより生かした方が政治的に得策と考えたためだが、自身に刃向かい続けさんざん苦しめられた相手に対しても、信長は感情的ではなく冷静で合理的な判断をしていることが分かる。
柴田勝家を総大将として上杉謙信と戦った「手取川の戦い」で織田軍は大敗してしまうが、この時、秀吉が勝家と喧嘩をして勝手に軍を引いており、これに信長は激怒したが、秀吉が次の戦いで活躍するとあっさり許している。
勝てる戦をするタイプ
「鳴かぬなら鳴くまで待とう」は徳川家康のイメージとされているが、実は信長も「鳴くまで待とう」という気質があり、勝てる見込みのない戦いはしないタイプだった。
元亀元年(1570年)朝倉討伐の時、妹のお市の方を嫁に出し盟友と信用していた浅井長政が信長を裏切り、挟撃されるという信長最大のピンチとされる「金ヶ崎の退き口」が起きる。
普通の武士や武将であれば逃げずに自害を選ぶか、プライドにかけて戦って散るという選択をしそうな場面だったが、「これは勝てない(負ける)」と思った信長は味方を置き去りにして、わずかな護衛だけを連れて戦場から逃走した。
京都に逃げ延びた時、信長の供の者は10人程度だったというから絶体絶命のピンチだったと言える。
戦国時代、窮地に陥ると多くの武将たちが「もはやこれまで」と覚悟を決めて自害することが多かった時に、信長は武士としてのプライドより生き残る可能性がわずかでもあれば、そちらを選択した。
豊臣秀吉・明智光秀・池田勝正が殿軍を務め、追撃してくる朝倉軍の猛攻に耐えて戻ってくると、本拠地・岐阜に戻り兵を立て直して戦いの準備を進め、すぐに朝倉・浅井連合軍を「姉川の戦い」で打ち破った。
桶狭間の戦いでの奇襲攻撃や若い頃に乱暴者だったという話が有名になってしまい「信長=短期」というイメージが強いが、実際には恥を忍ぶことができ、忍耐強く慎重に準備を進めて勝利を得るタイプだった。
家臣には想像以上に恐れられていた
実際に信長と何度も会っている宣教師のルイスフロイスが面白い記述を残している。
美濃の国、またその政庁で見たすべてのものの中で、もっとも私を驚嘆せしめましたのは、この国主(信長)がいかに異常な仕方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありました。すなわち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らはきわめて凶暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにしてただちに消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名がきわめて抑揚のある声で返事しました。彼の一報告を伝達する者は、それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るかのように行かねばならぬと言って差し支えがありません。
都では大いに評価される公方様の最大の寵臣のような殿も、信長と語る際には、顔を地につけて行うのであり、彼の前で眼を上げる者は誰もおりません。彼と語ることを望む、政庁になんらか用件のある者は、彼が城から出て宮殿に下りて来るのを途上で待ち受けるのです。
フロイス「日本史」より
これを読むと、実際の信長は想像よりはるかに家臣に恐れられていたことがわかる。
信長がちょこっと手で合図しただけで家臣たちは全力で猛ダッシュで姿を消す。誰かを呼べば呼んでいないその他大勢(100人ほど)まで全力で返事をする。伝令は歩きでも徒歩でも常に猛ダッシュ。
公家のお偉方も信長とは目すら合わせられず、所要がある者はいつ出てくるかわからない信長を城の外で延々と待たなければならない。
ドラマや映画でもさすがにここまでの演出は見たことがない。
ただ気が短いというだけではここまで畏怖はされないと思うし、フロイスにはずっと紳士的に接していてかなり好感を持たれている。
とはいえ外国人も驚愕するほどの、恐ろしい空気感を持っていた人物だったことは間違いなさそうだ。
なぜ明智光秀に不覚を取られたのか?
信長は明智光秀を頼りにしていた。宿老と呼ばれる重臣たちの中では一番遅く家臣になった光秀を一番最初に城持ち大名にしている。
光秀が実際に信長から与えられた坂本城(現在の滋賀県大津市)と亀山城(現在の京都府亀岡市)は京都の東と西に位置している。
つまり信長は光秀に「お前のことを買っている、だから一番重要な場所を任せた」という想いでいたはずだ。
光秀の生年には幾つかの説があり、信長よりも6~18歳年上だったとされている。
隠居を考えてもいい歳になっていたにもかかわらず、信長は戦をやめさせようとはしなかった。もっと光秀に働いてもらおうと思っていた。
現に本能寺の変が起きた時は秀吉の中国攻めの援軍に向かう最中であった。
光秀は他の諸将にはあまり良く思われていなかったが、信長からは信頼され極めて高く評価されていた。信長と光秀の関係性においてもルイス・フロイスの記述が残っている。
彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには彼を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らはそうでないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
また友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついにはこのような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略には精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後二カ国の国主に取り立て、信長がすでに破壊した比叡山の延暦寺の全収入とともに彼に与えるに至った。
信長は奇妙なばかりに親しく彼を用いたが、権威と地位をいっそう誇示すべく、三河の国主(家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことを決め、その盛大な招宴の接待役を彼に下命した。フロイス[日本史]より
これを見ると、外国人から見ても奇妙に映るくらい信長は光秀を気に入っていたようだ。しかし実際の光秀は腹黒い人物で周到な計算によって信長に取り入り出世していったと記述されている。
本能寺の変は日本史最大のミステリーで、何が原因で光秀が謀反を起こしたのかはいまだに謎であるが、いずれにせよ不覚をとった大きな要因は「光秀を信頼しすぎた」ということに尽きるだろう。
フロイスによれば光秀は人を欺く為の72の方法を体得し学習したことを自慢するような人物で、信長は戦略や戦術には精通しているものの、こうした人間関係の謀略には疎かった。
信長は意外とピュアでお人好しの部分があり、そこを腹黒い光秀に突かれたというのが実際のところであろう。
生きていると見せかけた?
本能寺の変の後、信長の首はいくら探しても見つからず、今でも消息不明である。
信長が「光秀に首をやりたくない」という思いが強かったことは想像に難くないが「自分の首がなければどうなるか?」と考えて動いたとすれば、火の中に包まれ死に直面する土壇場でも、冷静に先の展開まで見通した判断をしたということになる。
中国大返しの最中、秀吉は信長の首がないことから畿内の大名たちに「信長様は生きている」という偽の手紙を送っている。
これは黒田官兵衛が姫路に3日間も留まって信長の首がどうなったのかを調べていたのだ。
首が見つかっていないことを確信した官兵衛は秀吉に偽の手紙を書かせた。
万が一でも信長が生きていればと考えれば、他の諸将も光秀には協力できなくなる。さすが信長は死ぬ瞬間まで仕事をしたということだ。
おわりに
徳川家康の功を労うために光秀が接待役を任され、「魚が腐っている」と信長の怒りを買って殴られるというシーンをTVドラマなどで良く目にするため、信長は「短気で切れやすい怖い人」というイメージがある。
しかし、この話にも諸説あり「信長は光秀に家康を討て」と命じた、「魚が腐っている」は毒を入れろという意味だった、などの説がある。
信長は苛烈な人物だったことは間違いなさそうだが、短気というよりは冷静に合理的に苛烈な判断を下すという、ある意味もっと恐ろしい人物だったというのが実像と言えそうだ。
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