豊臣秀吉は、生まれは低い身分ながら戦国乱世を制して「天下人」へと駆け上がった男である。
日本の長い歴史の中でも「類を見ないほどの大出世」を成し遂げた男・秀吉が持っていた最大の武器は何だったのか?
それは強い軍隊でもなければ、莫大な財産でもない。
それは人をうまく味方につける才能、いわゆる「人たらし」である。
今回は秀吉の「人心掌握術」とはどれほど凄かったのか解説する。
秀吉の人物像
簡単に秀吉の人物像を紹介しておく。
秀吉は天文6年(1537年)尾張国(現在の愛知県)に生まれ、18歳頃に織田信長に仕えたという。
身分が低くまったくの無名の存在だったが次第に頭角を現し、数々の武功を挙げて信長の重臣となった。
本能寺の変で信長が自害すると「中国大返し」を成功させ、主君の仇・明智光秀を討ち、天下統一を果たす。
その後、中国や朝鮮の征服をもくろむが、その途中で62歳の生涯を終えた。
人たらしになった理由
秀吉の持って生まれた自身の性格もあるだろうが、低い身分からの「叩き上げ」で出世した秀吉には自前の家臣団がなかった。
そのため、多くの優秀な人材を登用する必要性があったことが大きな理由だとされている。
この才能は戦いの場でも発揮されて、むやみに戦火を交えずに相手を「味方に組み込む」ことで無用な犠牲を出さずに勢力を拡大していったのだ。
他に、秀吉には「人材を見抜く力」があった。
その代表的な例が「竹中半兵衛」「黒田官兵衛」「石田三成」など優秀な家臣たちの登用である。
「人材を見抜く力」は上に立つ者の必須条件とも言える。
上司が苦しい時にアピール
秀吉は上司(信長)がピンチの時には率先して困難な仕事を引き受けたという。
上司である佐久間信盛や柴田勝家がどうしても出来なかった「墨俣一夜城」も自身で信長に言上した。(※ただし史料的な裏付けはない)
信長最大のピンチと言われた「金ヶ崎の退き口」では、明智光秀や池田勝正と共に殿(しんがり)軍を務めた。秀吉はこの功績によってより信長から重用されるようになったという。
殿軍を務めた3人の武将の中で、信長へのアピールも一番上手かった。
部下のミスを責めずに心を掴む
秀吉は部下の失敗をあえて咎めず、逆に優しい言葉をかけて心を掴むのも得意であったという。
小牧・長久手の戦いの時、秀吉の水軍を指揮していた九鬼嘉隆は、徳川方に反撃され命からがら撤退した。
嘉隆がこの失敗を秀吉に詫びると、秀吉は「あの状況で帰還出来たことこそ何よりの手柄である」と称えたという。
それに感動した嘉隆は終生秀吉に忠誠を尽くし、関ヶ原の戦いでは西軍となって最期は自害して果てた。
接待攻勢
中国地方最大の大名・毛利輝元に秀吉は上洛を命じた。
この時、毛利家は秀吉の臣下に置かれていたが、輝元はまだ秀吉のことを警戒していた。
輝元が覚悟を決めて上洛すると、秀吉は輝元に「官位の便宜」や「京都大坂の観光案内」、各界の有名人が集う「社交界」の一員に招き入れるなど厚遇したため、輝元は秀吉に完全に服従するようになったという。
好感度アップ
かつて主君・信長は京都で盛大な軍事パレード「馬揃え」を行ってその力を誇示した。
秀吉は京都の北野天満宮で史上空前の茶会「北野大茶湯」を主催した。
茶の湯の愛好者なら身分に限らず湯呑み一つで参加OKとしたため、当日は1,000人の来場者が訪れ「秀吉の時世」が意識されるようになった。
大盤振る舞い
中国大返しの際、居城・姫路城に戻った秀吉は、これから明智光秀を討つと家臣たちに話した。
この戦いに勝てばもう姫路城には戻らないので、姫路城内の金銀や米穀を兵たちの身分に応じて分け与えた。
その総額は現在の価値で約66億円ともされ、この大盤振る舞いに兵たちの士気は上がった。
天下人となった秀吉は生野(兵庫県)、石見(島根県)といった主要な金山と銀山を直轄地にして、莫大な収益をあげていた。
京都に聚楽第を建て皇族を饗応し、弟・秀長には「金3,000両と銀2万両」、家康には「金1,000両と銀1万両」など、その総額は36万5,000両(金1両は現在の価値で数万~数十万円)まさに大盤振る舞いであった。
信長を批評
秀吉は後年、かつての主君・信長についてこう評した。
信長様は勇将であったが、良将ではなかった。
剛が柔に勝つことを知っていても、柔が剛を制することを知らなかった。
つまり、「敵味方を問わず常に恐怖で人を支配する」信長の方針を「それこそが敵を増やし、ついには味方の裏切りにあった」と断じて、リーダーに必要な「人の心を掴む」大切さを説いたという。
おわりに
「人たらし」と聞くと媚へつらうようなマイナスのイメージがあるが、晩年の秀吉は、聚楽第落首事件で関係ない町人まで皆殺し、千利休を切腹させてさらし首、2度も朝鮮出兵を行うなど残虐性や攻撃性が顕著に現れている。
つまり元々秀吉は「人たらし」というより攻撃的な人物で、天下を取るまではそれを隠し、今で言う「人心掌握術」をうまく駆使して天下を取ったのではないだろうかと筆者は想像してしまう。
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