浅野幸長とは
浅野幸長(あさのよしなが)は、織田信長と豊臣秀吉に仕えた浅野長政の嫡男として秀吉の一門衆として活躍した武将である。
父と共に秀吉の天下取りを助け、父・長政が上方に詰めていることが多かったために領国の甲斐の支配を進めた。
関白・豊臣秀次の事件が起きた時は大ピンチを迎えるが、なんとか切り抜ける。
秀吉没後は福島正則や加藤清正らと同じ武断派のメンバーとして、文治派の石田三成らと対立して徳川家康についた。
関ヶ原の戦いの武功によって紀伊国37万6,560石を与えられて和歌山城主となったが、38歳で謎の病死をしている。
38歳で疑惑の死を迎えた武勇に優れた武将・浅野幸長について解説する。
浅野幸長の出自
浅野幸長は、天正4年(1576年)織田信長に仕える浅野長政の長男として近江国の小谷城下(現在の滋賀県長浜市)にて生まれた。
父・長政は豊臣秀吉の正室・ねね(北政所)の義弟にあたり、本能寺の変で織田信長が横死した後に秀吉に仕えた。
幸長はねね(北政所)の甥にあたり、秀吉の一門衆であった。
父・長政は賤ヶ岳の戦いで武功を挙げて近江・大津城にて2万300石の大名となった。
そんな父の活躍を見て育った幸長は、初陣前の天正17年(1589年)に従五位下・左京大夫に叙任されている。
天正18年(1590年)小田原征伐に父と共に出陣して岩槻城の戦いで初陣を飾っている。
初陣でも幸長は素晴らしい活躍をして秀吉から脇差しを与えられている。
この頃には前田利家の五女・与免と婚約していたが、与免が嫁ぐ前に早世したために池田恒興の娘を正室に迎えている。
数々の武功
父と共に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも参陣し、加藤清正らと合流して各地を暴れまくった。
武勇に優れ、鉄砲の腕は天下一と称されるほどだったという。
文禄2年(1593年)に父・長政が甲斐21万5,000石に加増移封となったが、長政は上方につめていたために、一説には長政が5万5,500石で幸長が16万石だとされている。残り1万石は蔵入地と定められた。
幸長は甲府城に入り、東国大名の取次役を命じられている。
父が上方につめていることが多かったので、幸長は国奉行を配置して甲斐の支配を進め、太閤検地の実施や甲府城の修築などを行った。
父・長政は秀吉の絶大な信頼を得て五奉行の筆頭職になっている。
秀次事件
文禄4年(1595年)関白・豊臣秀次が秀吉から謀反を疑われた、秀次事件が起きる。(※後に秀次は切腹)
秀次の正室・若御前と幸長の正室が、共に池田恒興の娘で姉妹であったことから幸長は秀次をかばった。
これに秀吉が怒り、幸長や父・長政も連座として能登・津向に流されてしまう。
しかし、徳川家康と前田利家の取り成しによってなんとか秀吉に許されている。
石田三成と対立
秀吉没後、朝鮮出兵時の処分等によって加藤清正・福島正則・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・黒田長政と幸長は、石田三成や小西行長らの文治派と対立した。
慶長4年(1599年)仲介役であった前田利家の死去により、武断派の武将たちは石田三成襲撃事件を起こす。
※襲撃事件に参加した七将は池田輝政に代わって蜂須賀家政。加藤嘉明に代わって藤堂高虎だったとされる説もある。
三成は伏見城内の自分の屋敷に逃げ込み、仲裁役を家康に依頼した。
家康は三成へ蟄居謹慎を命じ、三成は居城・佐和山城へと戻った。
これ以降、家康が豊臣政権の筆頭大老として事実上の政権を掌握することとなる。
幸長は家康との関係性を深めていった。
しかし、父・長政は前田利長らと共に家康から暗殺の嫌疑をかけられ、家督を幸長に譲って隠居するという事件が起きる。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)三成ら西軍が挙兵すると、関ヶ原の戦いでは幸長・長政父子は家康の東軍に味方することを表明。
ただ、父・長政は増田長盛の讒言によって家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎・隠居していたため、幸長が代わりに出陣した。
幸長は、下野国小山で三成挙兵の軍議で進み出て「上方の妻子が人質に取られているが、疑念は持たないでもらいたい」と家康との同盟を表明して先鋒の一つに任命された。
8月22日、木曽川渡河に際して幸長と池田輝政は西軍の押さえとなり、木造長政らを撃破。
8月23日、三成の家臣・柏原彦左衛門の籠る瑞龍寺山砦を攻撃して彦左衛門の首を取り、敵兵500余りを討ち取っている。
その後も、河田木曽川渡河の戦い、米野の戦い、岐阜城の戦いと続き、9月14日には関ヶ原に入り、南宮山の毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家ら西軍の備えとして、池田輝政と共に垂井一里塚付近に陣を構えた。
9月15日、吉川広家が徳川に寝返り、毛利・安国寺・長束軍は動けずにいたため本戦では対峙したままで終わった。
本戦後も福島正則や池田輝政らと共に禁裏を守護、21日は井伊直政と共に大坂城へ向かい毛利輝元との和議を仲介した。
毛利輝元が大坂城から出ると、幸長が西の丸に入り家康を迎えた。
この功によって幸長は紀伊国37万6,560石を与えられ、和歌山城主となった。
謎の急死
父・長政は、関ヶ原の戦いの前に前田利長らと共に家康から暗殺の嫌疑をかけられ、家督を幸長に譲って隠居していたが、慶長11年(1606年)に許されて常盤・真壁城5万石として幕府から隠居料を与えられた。
慶長13年(1608年)幸長の娘・春姫と、家康の九男・尾張大納言徳川義直の婚約が成立する。
しかし、徳川義直の病気を理由に婚儀は順延になっている。
慶長16年(1611年)家康と豊臣秀頼の二条城での対面においては、加藤清正と共に秀頼の警護役として二人の対面を実現させている。
この対面の帰りに加藤清正が急死。父・長政も急死し、池田輝政も急死する。
豊臣恩顧の大名たちが続々と亡くなっていく中、幸長も慶長18年(1613年)病に倒れる。
幕府から派遣されたという名医・曲直瀬道三(まなせどうざん)が幸長の治療を行ったが、まもなく幸長は38歳の若さで急死した。
周りは「道三の薬を飲んだせいで死んでしまったのではないか?」と謀殺を疑ったという。豊臣恩顧の大名たちと共に武勇に優れた幸長も警戒されて暗殺された可能性はある。
葛城という名の傾城の美女と呼ばれた遊女を召し抱えて性病で亡くなったという説もあるが、死のあまりのタイミングの良さに当時でも暗殺説は広く流布したようである。
おわりに
浅野幸長は豊臣秀吉の甥で「威があり、それ以上に徳があった」と称されている。
器量人として名高かった豊臣恩顧の大名・幸長を、家康は本心では信用していなかったのかもしれない。
家康は、形式的には自分の九男の正室として幸長の娘と婚約させたが、病気を理由に延長し、幸長が亡くなるとその直後に大坂冬の陣・夏の陣の戦いで豊臣家を滅亡させているのだ。
そう考えると、幸長の謎の急死は誰の仕業なのかと勘繰りたくなる。
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