はじめに
2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、比叡山延暦寺の焼き討ち事件の恩賞として 明智光秀が琵琶湖畔・坂本城の城主となったことが描かれていた。
信長に仕える前は斎藤道三に仕え、その嫡男・義龍と敵対して越前・朝倉氏を頼ったが、貧乏暮らしを余儀なくされた光秀に一筋の光明が差した。
旧友・細川藤孝の依頼で織田信長との仲介をして、足利義昭を室町幕府第15代将軍に就任させた後、信長と共に戦い数々の武功を挙げて一気に出世した。
比叡山焼き討ちで戦功のあった光秀は近江志賀郡5万石が与えられて、その居城として琵琶湖に面した地に城を築いた。
織田家家臣団の中で、初の城持ち大名となった光秀の居城が坂本城であった。
光秀は坂本城の他にも丹波・若狭攻略の拠点として複数の城を築城し、短期間で石垣を用いて天守を抱いた立派な城を建てたことから「築城の名手」と呼ばれた。
今回は光秀の城について検証する。
坂本城
光秀が築城した坂本城(現在の滋賀県大津市)は、史料によると琵琶湖から船で乗り入れができ、驚くべきことに天守が立っていたという。
信長の安土城より以前に築かれたこの天守には大天守と小天守があったようだが、残念ながら本能寺の変後に坂本城は焼失した。
すぐに再建されるも大津城新築のために城は取り壊されて、坂本城の資材は全て大津城で再利用されてしまった。
そのため坂本城はほとんど遺構が残ってはいないが、何でも「琵琶湖の水位が減少すると石垣が顔を覗かせる」という当時では最新技術を持つ城であったという。
坂本城があった場所は琵琶湖の南西側、大津の北に位置し、西側には比叡山、白鳥道と中山道の2つの道が通じており、中世・近世において物資輸送の港町として坂本(大津)は交通の要所として繁栄していた。
室町幕府15代将軍に就任した足利義昭が信長に副将軍や管領を打診したが、信長はそれを断り、堺・大津・草津という日本3大商業都市の支配を欲した。
ルイス・フロイスは著書「日本史」の中で
「光秀は坂本と呼ばれる地で邸宅と城砦を築いたが、日本人にとっては豪壮華麗なもので、信長の安土城に次ぐ城だ」
と記述している。
坂本城の位置や構造については不明となっていたが、発掘調査によって一定の構造が明確になってきた。
城内には琵琶湖の水が引き入れてあり、城内から直接船に乗り込んで安土城に向かったという文書があり、坂本城は「水城」形式の城であった。
また、大天守・小天守で構成される高層の天守を中心に城と内堀で囲まれた主郭があり、西側には中堀で囲まれた曲輪、更にそれを取り巻くように外堀で囲まれた曲輪があったという。
信長の安土城ができる前、坂本城は日本一豪壮華麗な城であったのだ。
- 坂本城跡(大津市)
亀山城
光秀は信長の命である丹波攻略の拠点とするために、天正5年(1577年)に丹波亀山城を丹波国桑田郡亀岡に築城した。
城の場所は現在の京都府亀岡市荒塚町周辺だとされ、天正4年に計画されて天正6年に完成したという説もある。
保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれたが、残念ながら正確な史料が残っていないために全容は分かっていない。
光秀は配下の国人衆を普請に動員し、国人衆は作業を行う人夫の手配から鋤・鍬など道具の用意まで全てを行ったという。
国人衆の中には、普請の担当が終わるとすぐに大坂の石山本願寺攻めに向かう者も多く、戦の中での築城は国人衆たちにとって大変な作業であった。
この丹波亀山城は短期間で築城されたようで、丹波の人たちもあまりの早さに驚いたという。築城に関しては周辺の寺院・神社から柱や扉といった部材や石材が資材として徴収され、職人や人夫も相当な大人数が動員された。
荒塚山の山頂部を削って平らにし、また埋め立てしたりして城地が整備され、石垣が築かれた。
城の施設として城郭と家臣の屋敷を囲う「惣掘(そうぼり)」が構築され、三重の天守があったとされているが、実像はほとんどが謎に包まれている。
「明智門」と呼ばれる門が築かれた二の丸付近が、光秀の丹波亀山城の場所であったと推定されている。
天正8年(1580年)に丹波国を平定した光秀は本格的な城下町の整備と領国経営に着手するが、そのわずか2年後に「本能寺の変」が起きてしまう。
亀山城はその後、小早川秀秋によって修築され、慶長15年(1610年)岡部長盛の代に徳川家康の天下普請の命によって近世城郭としての亀山城が完成する。
その時は築城の名手・藤堂高虎が縄張設計を担当し、五重の層塔型天守が造営されている。
- 亀岡城の観光ガイド – 攻城団
福知山城
福知山城は、丹波国天田郡福地山(現在の京都府福知山市)にあった平山城で、現在のような縄張り(城の全体像の設計)は丹波国を平定した光秀によって、天正7年(1579年)に作られた。
天守閣は三重三階の大天守と二重二階の小天守があった。
福知山市街を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から「臥龍城」の別名を持つ。
東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、北側の土師川と合流する標高40mの台地の展望の良い場所に築城された。
残念ながら明治6年(1873年)の廃城令によって石垣と一部の遺構を除き大部分が取り壊されたが、昭和61年(1986年)に市民の瓦一枚運動などによって天守閣が復元されている。
現在は福知山公園として整備され、良君として領民に慕われた光秀の足跡が遺されている。
公園内には光秀の肖像画や軍法、直筆の書状など貴重な資料が展示されているミュージアムがある。
天守台の石垣は光秀が築城した当時の面影を伝えており、一見乱雑に見える積み方は「野面積み(のずらずみ)」と呼ばれ、自然石を巧みに組み合わせたものである。
近隣の寺院や神社から集められたもので、旧勢力の象徴であった寺院などを破壊して石垣に組み込むことで新たな支配を示そうとしたと思われる。
ただ、光秀は石材を集める一方で、その補償として代用になる石を配ったとも言われている。
新しい統治者に対する民衆の抵抗を和らげる心配りを忘れなかった光秀の想いが伺いしれる。
また、光秀は度々氾濫する川に堤防を築き、衝撃を和らげるための藪を設けた。
その藪は今では「明智藪(光秀堤)」として地域の人に親しまれている。
光秀は城下町を発展させるために地子銭(宅地税)を免除し、楽市楽座を設けて経済発展に力を入れ、現在に至る福知山の発展を築いた人物として福知山市民に親しまれている。
おわりに
今回は坂本城・亀山城・福知山城を紹介したが、光秀は金山城や周山城も築城している。
金山城は丹波攻略に伴って標高540mの鐘ヶ坂峠の山頂部に築城した山城である。
周山城は丹後を攻略し若狭を狙う周山街道の中間地点480mの山頂部を中心に南北600m、東西1,300mに及ぶ大規模な城郭、両城共に石垣を用い天守を設けていて、光秀の高い築城技術を垣間見ることができる。
戦乱の中で短い期間に築城したにも関わらず、光秀が築城した城は当時の最新技術が散りばめられており、まさに築城の名手と言えるのだ。
関連記事:
「安土城、大坂城、江戸城」を築城した大工の棟梁と城の特徴
他の城に関する記事一覧
この記事へのコメントはありません。