天才軍師
豊臣秀吉の天下統一を支えた一番の功労者は、言わずと知れた天才軍師・黒田官兵衛(くろだかんべえ)と言えよう。
秀吉は官兵衛のあまりの切れ者ぶりに「自分の死後に天下を奪うのではないか」と、徳川家康や前田利家よりも恐れたという逸話もある。
そのせいか、あれだけの功績・実績を挙げているにもかかわらず、官兵衛に与えられた領地は九州豊前・中津12万石のみであった。
しかも九州は古くからの国人衆が多く、九州平定後に秀吉によって肥後の領主として送り込まれた佐々成政は国人衆たちの反乱を抑えきれずに切腹させられている。九州は一揆や争いが絶えない土地であった。
秀吉没後、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が起こるが、官兵衛は九州の地で東軍として九州平定の戦いを起こし、大きな野望を目指す大博打に出た。
軍師・官兵衛「もう一つの関ヶ原」について解説する。
関ヶ原の戦いの前に
天下人となった秀吉が、家臣や御伽衆たちとの話の中で「わしが死んだ後の次の天下人は誰か?」と問うと、家臣たちは徳川家康や前田利家の名を挙げたが、秀吉は「本当に怖いのは官兵衛だ」と言った逸話がある。
秀吉は誰よりも官兵衛の実力を認め、官兵衛が本気になれば息子・秀頼から天下を奪うかもしれないと思うようになった。
それを伝え聞いた官兵衛は、天正17年(1589年)嫡男・長政に家督を譲り、剃髪して「如水(じょすい)」と号した。(※家督を譲ったのは他にも理由がある)
慶長3年(1598年)秀吉没後、徳川家康と石田三成が対立、豊臣恩顧の大名たちも三成派の文治派と加藤清正や福島正則ら武断派の対立が激化していった。
官兵衛は、朝鮮出兵に兵を派遣せず250万石を有する家康が次の天下人となると考え、家康に接近するために慶長3年(1598年)息子・長政と結婚していた蜂須賀正勝の娘・糸姫を離別させ、家康の養女・栄姫(保科正直の娘)を新たに正室に迎えて、家康と姻戚関係を結ばせた。
慶長4年(1599年)前田利家が亡くなると長政は武断派七将の一人として三成襲撃事件を起こすが、家康の仲介で三成は奉行職を辞して佐和山城に蟄居となり、この事件は収まった。
慶長5年(1600年)家康が会津征伐に向かう途中で三成挙兵の知らせを受ける。この時の小山評定にて長政は福島正則を説得して家康側につかせることに成功するなど、家康のために存分な働きをした。(※但し小山評定は一次史料からは確認されない)
官兵衛(如水)は、長政が家康と姻戚関係を持ったことで蜂須賀家政や藤堂高虎らと共に家康方に参じた。
会津征伐では長政に黒田軍の主力部隊を派遣して自分は中津に帰国し、家康に対して味方として密約を結んだ。
この時、官兵衛のもとにはたった200人程度の少数の部隊しかいなかった。
この密約は、東軍として九州の地で西軍側の敵に攻め込み、奪った領地は黒田家のものとなる「切り取り次第」というものであった。
もう一つの関ヶ原
三成挙兵の知らせを受けた官兵衛は中津城の金蔵を開き、領内の農民などに支度金を与え、その他九州・四国・中国からも聞き及んで集まった者たち9,000人を集め、もう一つの黒田軍を作り上げた。
官兵衛は天下分け目の「関ヶ原の戦い」の間を縫って九州平定という人生最後の大博打を打ったのだ。
大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後国に攻め込むと、細川忠興の援軍要請に応じて出陣したのである。
石垣原の戦いで大友軍に勝利した黒田軍は進撃を開始して西軍に属した諸城を次々と落としていった。
黒田軍の軍勢は13,000を超え、鍋島直茂らと共に久留米城攻めを行う。
その後、海津城を落とすと、加藤清正も官兵衛と合流し、猛将として知られる立花宗茂を降伏させて黒田軍に加わらせる。
こうして官兵衛は鍋島直茂・加藤清正・立花宗茂を加えた4万の軍勢で九州最後の勢力である島津氏討伐に向かったが、家康と島津義久との和議が成立してしまい家康からの停戦命令を受けて軍を退いた。
大博打
関ヶ原の戦いの最中に九州平定を目指した官兵衛は、わずか2か月ほどで九州の大半を占領した。
状況を見ながら九州で勢力を拡大し、関ヶ原の戦いで東軍西軍が消耗した後に一気に攻め上がり、天下統一を果たすという戦略を描いていた可能性はある。
官兵衛は、このように天下を二分する大きな戦が起きることを予想し多額の資金を蓄えていた。
九州の西軍の大名は主力部隊を率いて関ヶ原の戦いに向かうはずである。そこで蓄えていた資金を投じて農民や浪人などで部隊を編成し、主力部隊がいない西軍の北九州の諸城を攻め落とすというシナリオである。
実際に、寄せ集めのにわか部隊でも官兵衛の優れた指揮であっという間に多くの城が落ちた。そして戦わずに軍門に下った者も含めると軍勢は1万3,000人を超えていた。
家康と「領地切り取り次第」の約束を取り付けて九州の残敵掃討作戦に出て、鍋島軍・加藤軍と合流して残すは薩摩・大隅の島津氏を残すのみとなっていたのだ。
思惑違い
しかし島津義久が家康と和議を結んだために、官兵衛の九州平定という思惑は2か月で終わってしまった。
息子・長政は、関ヶ原の戦いでも家康から感状を授かるほどの大活躍をして、筑前国52万3,000石の領主となって帰国した。
長政は「家康は自分の手を3度もとって感謝してくれました」と嬉しそうに官兵衛に報告した。
もし官兵衛が野望を抱いていたとすれば、関ヶ原の戦いがわずか1日で終わったことは大誤算だったし、皮肉にも自分の息子が東軍の勝利に大きく貢献してしまった形となり、複雑な心境だったに違いない。
さらに家康との「切り取り次第」の約束も100万石は貰える計算だったが、結果は約半分の52万3,000石となってしまった。
さすがの官兵衛でも天下を狙うにはこの石高では少なすぎる。家康に約束を反故にされた官兵衛は、内心悔しい思いがあったはずである。戦略的には家康が一枚上だったという形になる。
おわりに
豊臣秀吉の天下取りを支えた黒田官兵衛は、あまりの切れ者ぶりに主君・秀吉に恐れられてたった12万石しか与えられなかった。
秀吉の死後、時流を読み家康につき、関ヶ原の戦いの裏で「もう一つの関ヶ原」を行い九州を平定し、その勢いで天下統一までの夢を抱いて人生最後の大博打に打って出た。
しかし関ヶ原の戦いが1日で決着したことで「自分は天下人の器ではない」と悟ったのかもしれない。
たった200人の手勢から九州平定手前までいったところは、さすが日本最高と称される軍師・官兵衛である。
さすがは軍師・官兵衛たった200の兵で強兵計画を立て、金で傭兵を雇い入れついには13,000人の兵にし、島津以外の九州をあっという間に制圧するとはあっぱれ!
だが、家康はさすが狸おやじ、切り取り自由なんて約束を反故にするところに老練な政治力を感じる。
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