秀吉は刀剣コレクターだった
天下人となった豊臣秀吉は、かつての主君・織田信長にも負けない無類の刀剣コレクターであったという。
「刀剣乱舞」というゲームから火がついた昨今の刀剣女子たちが熱い視線を集める名刀から、不思議な妖力を持つ妖刀まで様々な名刀を所持していた。
今回は天下人・秀吉が愛した名刀について紹介していこうと思う。
天下三作品
秀吉は「水攻め」や「兵糧攻め」といったあまり武器を使わない戦術を好んだが、名刀コレクターでもあり、刀剣の鑑定書である「折紙」の発行を始めたのも秀吉だと言われている。
古今東西、様々な地域の名刀を集め、その中でも「正宗」「義弘」「吉光」などの名工たちが打った刀をこよなく愛して、これらを「天下三作」と呼んでいた。
秀吉の側近で刀剣の管理を任されていた「本阿弥光徳(ほんあみこうとく)」の資料には、正宗と吉光だけで十数振以上保持していたとされている。
一期一振
秀吉が多くの名刀の中でも気に入ったものだけ入れていた「一之箱(いちのはこ)」に納められていたのが、粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)作の「一期一振(いちごひとふり)」である。
粟田口吉光は、鎌倉時代中期に京都で活躍した名工で、通称「藤四郎(とうしろう)」と呼ばれ、短刀や脇差など刃長の短い刀剣を得意としていた。
そんな吉光が生涯で唯一製作した太刀が「一期一振」なのである。
「生涯で一度きりの太刀」という意味で「一期一振」と命名したという。
戦国時代に朝倉氏が所有していたが、朝倉氏滅亡後に毛利氏のもとに渡り、毛利輝元から秀吉に献上された。
秀吉没後は豊臣秀頼の手に渡り、大坂夏の陣において大坂城落城後に焼身で発見された。そしてこれを惜しんだ徳川家康が刀工・越前康継に命じて再刃されたと伝えられている。
焼き直された「一期一振」は尾張徳川家に渡り、文久2年(1863年)に尾張藩主・徳川茂徳から孝明天皇に献上されて皇室御物となった。
現在は宮内庁の「山里御文庫・御剣庫蔵」に所蔵されている。
にっかり青江
にっかり青江(にっかりあおえ)は、南北朝時代に備中国(現在の岡山県)青江派の作とされる脇差である。
奇妙な名の由来は
ある武士が夜道を歩いていたところに赤子を抱いて「にっかり」笑う女の幽霊に出会い、あまりの不気味さに斬り捨てた。
翌朝、その武士が幽霊のいた場所を確認すると石灯篭(いしどうろう)が真っ二つになっていた。
という伝説からきている。
幽霊を切り捨てた武士は浅野長政の家臣など諸説があるが、近江の国の人物だとされる。
にっかり青江は、当時近江国を治めていた柴田勝家の所有となり、勝家からその息子・勝敏へ譲られた。
その後、勝敏は賤ヶ岳の戦いで敗走して捕らえられて処刑され、その時に捕らえた丹羽長秀の手に渡り、秀吉に献上されたという。
秀吉没後は秀頼が受け継ぎ、京極高次に与えられ、京極家は「にっかり青家」を代々秘蔵して第2次世界大戦後に外部へ譲渡、平成9年(1997年)に丸亀市が購入し、現在は丸亀市立資料館に所蔵されている。
【IMなかのひと(K)】丸亀市立資料館「武士の装い展」、お目当てはこちらの刀…にっかり青江です!刀剣乱舞コラボグッズやパネルなどもありますよ。会場がある丸亀城はなかなかの急坂。ぜひ歩きやすいスニーカーで。明日から開幕です。https://t.co/6etMF5DXxS #とうらぶ pic.twitter.com/hX8ASiy34D
— アイエム[インターネットミュージアム] (@InternetMuseum) September 15, 2017
刀身の地鉄(じがね)は板目肌が詰み、青江派の特徴の「澄肌(すみはだ)・黒く澄んだ斑点」が見える。
製作当初は2尺5寸(約75.7cm)の太刀だったが、3度に渡る磨上げによって1尺9寸9分(約60.3cm)まで仕立て直された。
三日月宗近
三日月宗近(みかづきむねちか)は、平安時代の名工・三条宗近作の太刀で、鎬(しのぎ)と反りのある刀剣としては最も古い作品の一つである。
刀身に現れる短い刃文の打ちのけが、雲間に浮かぶ三日月のように見えることから名付けられた。
その清廉な美しさから「天下五剣(室町時代に定められた5振の名刀)」で最上級と称えられ「名物中の名物」と呼ばれた刀剣である。
ちなみに天下五剣とは「童子切」「鬼丸」「三日月」「大典太」「数珠丸」の5振のである。
秀吉の正室・高台院(ねね)が所有し、その後徳川2代将軍・秀忠に遺品として贈られてから徳川将軍家の所蔵となった。
一説には永禄8年(1565年)室町幕府第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに暗殺された「永禄の変」の時に、将軍・義輝が「三日月宗近」を振るって応戦したとも言われ、三好家から秀吉に献上されたという説が有力である。※また尼子家の家臣・山中幸盛が所有していたという説もある。(真偽は定かではない)
第2次世界大戦後、徳川家から個人の所蔵になり、平成4年(1992年)に東京国立博物館へ寄贈された。
童子切安綱
童子切安綱(どうじぎりやすつな)は、平安時代伯耆国の刀工・安綱作の太刀である。
このような伝説がある。
昔、京の都に悪鬼「酒呑童子(しゅてんどうじ)」が、美しい娘を狙ってさらうという悪行を繰り返していた。
そこで一条天皇が源頼光に鬼退治を命じて、頼光は重臣・坂田金時ら「頼光四天王」と共に山伏の変装で山へ潜入し、酒呑童子に近づいて鬼にとっては猛毒の「神便鬼毒酒(じんべえどくしゅ)」を飲ませて酩酊させ、頼光は愛刀の太刀で酒呑童子の首を一刀両断にした。
「三日月宗近」と並び称される天下五剣の1振で、天下五剣最古の名刀として筆頭とも言われている。
「童子切安綱」は足利将軍家の所有となり、第15代・足利義昭から秀吉に贈られたが、秀吉はこの名刀を手元に置かず、刀剣の研磨・鑑定を生業とする本阿弥家に預けた。
秀吉は鬼を斬った刀剣を不吉と思ったのか豊臣家に置いていなかったので、大坂夏の陣で焼け落ちることから逃れた。
その後、徳川家康、秀忠と受け継がれ、慶長16年(1611年)秀忠の娘・勝姫が越前北ノ庄藩主・松平忠直に輿入れする際に松平家に渡った。
しかし、松平忠直は乱行を理由に九州へ流罪となり、松平家がお家再興を許された美作国津山藩(現在の岡山県北東部)で「童子切安綱」も津山藩に移り、現在は京都国立博物館が保管している。
大坂長義
大坂長義(おおさかちょうぎ)と呼ばれる短刀で、信長が好んだ備前長船派の名工・長義(ちょうぎ)の作である。
元々秀吉の愛刀であったこの短刀は、大坂城内で前田利家に与えられたという説がよく知られている。
名前の由来にはもう一つ説があり、前田利常が大坂で買い求めたためという説もある。
前田家が所有して家宝として長く受け継がれ、華やかで覇気に満ちた姿や地刃の沸(にえ)の強さが特徴であり、板目肌立ちの鍛えに地沸が厚く付いた、長義らしい特色がある刀剣である。
宗三左文字
信長が所有し、秀吉・秀頼・家康と渡り歩いた「宗三左文字(義元左文字)」は、別名・天下取りの刀と言われた。
名刀工・左文字派の作は憧れの的で、秀吉は「宗三左文字」以外に左文字の最高傑作とされる「太閤左文字(たいこうさもんじ)」という短刀を所持していたという。
それは南北朝時代に作られた短刀で、刃長は研ぎ減りのために7寸8分弱(約23.6cm)となったが、現在でも製作時当初の姿を残し、美しい肌と鋭く尖って長く棟側(むねがわ)に伸びていく刃文がいかにも左文字作といった雰囲気を感じさせる傑作とされている。
国宝に指定され、現在は広島市のふくやま美術館が所蔵している。
関連記事:
日本刀の歴史について調べてみた【美しき刀剣の世界】
日本刀の作り方 使い方について調べてみた
天下五剣の様々な伝説 【童子切安綱、鬼丸国綱、三日月宗近、大典太光世、数珠丸恒次】
【和弓と洋弓どちらが強い?】実は戦争の主役「弓」日本と世界の違い
この記事へのコメントはありません。