菊姫とは
菊姫(きくひめ)とは、武田信玄の五女で武田勝頼の異母妹であり、越後の戦国大名・上杉景勝の正室になった女性である。
長年敵対していた上杉家に嫁ぎ「笑わない無口な男」と言われた景勝と政略結婚させられたが、武田家が滅亡した後も景勝はそのまま正室として菊姫を丁重に扱ったという
今回は、才色兼備な賢夫人として家臣たちから敬愛された上杉景勝の正室・菊姫の生涯について掘り下げていきたい。
出自と結婚
菊姫は、永禄元年(1558年)甲斐の戦国大名・武田信玄の五女として生まれた。
母は、武田一族の油川氏の出自である油川夫人で、同じ母の兄姉として仁科盛信・葛山信貞・松姫がいる。
天正6年(1578年)越後の上杉謙信が急死すると、上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いの「御館の乱」が勃発した。
武田家の当主・武田勝頼は、同盟を結んでいた北条氏の要請で景虎支援のために越後へと出兵した。
その後、勝頼は景勝の和睦要請に応じて景虎との和睦を調停し越後から撤兵するが、その撤兵中に何と景勝・景虎の和睦は破綻してしまった。
すると景勝は、勝頼に上杉領の東上野の割譲と黄金を条件に和睦交渉を行った。
こうして勝頼は北条氏を裏切って景勝と結び、その結果、景勝が景虎を討って上杉家の当主となった。
これによって、武田と北条との同盟関係が破綻し敵対することになると、武田は上杉と「甲越同盟」を結び、翌年の天正7年(1579年)に勝頼の異母妹・菊姫が同盟の証として景勝の正室となったのである。
「甲陽軍艦」によると、菊姫は景勝と婚約する前に、長島一向宗の願証寺の僧と婚約していたという。
嫁入りの際に、勝頼は菊姫をとても心配し、嫁いだ後も菊姫に仕える家臣に様子を尋ねるなど、とても兄妹の仲は良かったと言われている。
勝頼にとって、妹をかつて敵対していた上杉家に嫁に出すことは、とても心配で辛いことだった。
まして相手は「無口で笑わない男」上杉景勝である。
勝頼の心配をよそに、景勝と菊姫は大変仲が良くなったが、2人の間には子どもができなかった。
そんな菊姫を不憫に思った景勝の側近・直江兼続の妻・お船の方が菊姫を支えたが、嫁いで3年後の天正10年(1582年)に武田家は滅亡してしまう。
武田家という後ろ盾を失い、政略結婚も意味のないものとなってしまったが、景勝は武田家滅亡後も菊姫を正室とし、とても丁重に扱ったという。
そんな景勝の姿勢は上杉家全体に影響し、菊姫は「甲州夫人」や「甲斐御寮人」と呼ばれ、才色兼備で質素倹約の賢夫人として家臣たちから敬愛されたという。
人質として
織田信長が本能寺の変で亡くなると、次に政権の中枢を握ったのは豊臣秀吉であった。
景勝は、いち早く秀吉に臣従して幾度もの戦に参戦し、豊臣政権下で力をつけていった。
天正17年(1589年)9月、小田原征伐に際し、秀吉は「1万石以上の諸大名の妻女は3年間京都に居るように」と命じた。
菊姫も同年12月に景勝と共に上洛し、京都伏見の上杉屋敷に入ったが、これは事実上の人質であった。
この時、直江兼続の妻・お船の方が、女好きな秀吉から菊姫を守るために、自身の子どもたちを置いて共に上京した。
場合によっては、自分が代わりに秀吉に抱かれるつもりでいたという。
その後、小田原征伐が終わり、会津の蒲生家でお家騒動が起きた後に、景勝は秀吉の命で会津120万石に転封となった。
しかし、菊姫は会津には戻らずに人質として京都の上杉屋敷で暮らしていた。
菊姫は公家の妻女たちとの交流を図っていたという。
上杉景勝と勧修寺晴豊の仲を取り持つ
景勝は公家の勧修寺晴豊(かじゅうじ はるとよ)と交流が深く、勧修寺晴豊は朝廷との取次を務め、景勝の装束の着付けを指南するなどしていた。
天正19年(1591年)勧修寺晴豊から茶会に招かれた景勝一行は、茶会の後に大酒を飲んでしまい酔いつぶれる者が出るなど醜態を晒してしまった。
その後、景勝は勧修寺晴豊を何度も茶会に招いたが、体調不良を理由に勧修寺晴豊は景勝の誘いを断っていた。
それを見かねた菊姫が勧修寺晴豊の妻に鮒50匹を贈って、2人の仲は回復したという逸話がある。
関ヶ原の戦い後
秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立し、三成と仲が良かった直江兼続は家康の行動に怒り、上杉家は家康と対立した。
景勝は会津に帰国後、領内の山道を開いて橋梁を修理させ、浪人を集めて28の支城の整備を命じ、兼続に新城の築城も命じた。
この動きを不審に思った家康は、上杉家に対して「上洛して領内諸城改修の申し開きをするように」と召還命令が出したが、景勝はこれを拒否した。
そして兼続は、家康に対して挑発的な返答書(直江状)を送った。(※直江状は偽書説や改竄説もある)
これに怒った家康は、会津征伐として諸大名を伴って出陣した。しかしこれを機と見た三成が突如挙兵したために、家康は次男・結城秀康に会津の抑えを任せた。
景勝と兼続は、東軍に与した伊達政宗や最上義光らと慶長出羽合戦を戦ったが、関ヶ原の戦いで西軍が敗北したために、家康に降伏した。
上杉家は大減移封され、会津120万石から米沢藩30万石になったが、菊姫は家康の人質として会津にも米沢にも戻ることはなく、そのまま京都伏見の上杉屋敷で過ごした。
慶長8年(1603年)菊姫は病となった。
弟・武田信清が米沢から看病に訪れ、景勝も寺社に祈祷を捧げ、名医を招いたという。
そんな時、皮肉にも景勝の側室・桂岩院が懐妊したという知らせが菊姫のもとに届いた。
翌年の慶長9年(1604年)2月、菊姫は47歳で亡くなった。
おわりに
菊姫は武田信玄の娘として生まれ、敵方だった上杉家に嫁いだ。
武田家が滅亡してからも大名・上杉景勝の正室として人脈を広げ、家同士の交流を大切にし、堅実にその務めを果たした戦国大名の姫様だった。
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