浅野長政とは
浅野長政(あさのながまさ)とは、織田信長・豊臣秀吉に仕え、豊臣政権では五奉行の1人として秀吉の天下統一と政権維持に尽力した武将である。
関ヶ原の戦いでは、東軍として徳川家康についている。
長政は秀吉の正室・ねねと同じ浅野家の人間(養子)であるために、秀吉に最も近い姻戚関係(舅を同じくする相婿)であった。
朝鮮出兵(文禄の役)の際には、秀吉自らが朝鮮に出兵すると言い出したが、長政は「古狐がとりついた」と命懸けの諫言をしたという。
今回は、秀吉を命懸けで諫言して朝鮮行きを止めた男、浅野長政について掘り下げていきたい。
出自
浅野長政は、天文16年(1547年)尾張国宮後城主・安井重継の子として生まれた。
信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がいなかったために、長勝の娘・ややの婿養子として浅野家に入り、後に浅野家の家督を継いだ。
同じ浅野長勝の養女・ねねが木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、秀吉と長政は舅を同じくする義理の相婿である。
最も近い姻戚として長政と秀吉は共に信長に仕えた。その後、長政は信長からの命で、次第に頭角を現した秀吉の与力となった。
信長の死後は秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで武功を挙げて近江国大津2万石の領主となった。その後は京都奉行職につき、豊臣政権の五奉行の1人として政務全般を担った。
長政は、秀吉からその卓越した行政手腕を買われて太閤検地を実施した。また東国の大名との関係も深く、豊臣政権が諸大名から没収した金銀山の管理も任されていた。
秀吉にとって長政は、信任できる上に姻戚関係で心を許せる人物でもあった。
秀吉の突然の発言
天正20年(1592年)4月、天下統一を果たした秀吉は明の征服を目指し、配下の西国の諸大名たちを中心に遠征軍を立ち上げた。
秀吉は、明の従属国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたために、遠征軍をまずは朝鮮に差し向けた。
加藤清正や小西行長ら、西国大名たちの侵攻で混乱した朝鮮は、後に明に援軍を仰ぐことになる。
そして、遠征軍を朝鮮に送った1か月後の5月のことである。
戦況報告を受けていた秀吉が、突如こんな発言をした。
「このようなことでは合戦がいつ終わるかも分からない。今は秀吉自らが30万の大軍を率いて朝鮮に押し渡り、前田利家と蒲生氏郷を左右の大将とし、三手に分かれて朝鮮は言うに及ばず明までも攻め入り…(中略)…日本のことは徳川殿がおられれば安心である」
なんと、秀吉自ら「朝鮮に渡る」と言い出したのである。
すると石田三成は「直ちに殿下のための船を造ります」と返答した。
家康の反論
この気まぐれな秀吉の発言に最初に反応したのが、徳川家康であった。
家康は
「異国で戦が起こって殿下が御渡海されるのに、私1人が諸将の後に残って留まり、むなしく日本を守れというのか。微勢であっても手勢を引き連れて、殿下の御先陣を努めたい」
と言ったのである。
この場は正式な豊臣政権の話し合いの場で、座を回していたのは秀吉から関白を譲られた豊臣秀次であった。
天下人・秀吉の決めた命に反論する家康の発言に、秀次は激怒した。
しかし家康は更に
「通常のことはともかくとして、弓矢の道においては後代へも残ることであるから、たとえ殿下の仰せであっても引き受け難い」
とはっきりと言い放ったのである。
家康からすれば、武道に関して武田信玄以外に不覚を取ったことがなく、これだけは譲れないとの思いがあったのだろう。
しかし、この場の空気は最悪となり「一体誰がこの事態を収拾するのか?」と、腹の探り合いとなった。
長政の諫言
そんな重苦しい空気の中で発言したのが、浅野長政だった。
長政は、こう発言した。
「この度の出兵では、中国や四国の若者たちは皆朝鮮へ渡り、殿下が今また北国や奥州の人衆を召し連れて渡海されることがあれば、国内はいよいよ人が少なくなります。その隙を伺って異国から攻められるか、また国中に一揆が起ったとして徳川殿お1人が残られ、一体どのようにこれを御鎮めになれましょうか」
この時点では、長政の言ったことが正論である。
家康の発言は、自分の武道における地位や名誉のためだったが、長政は日本の国のために理路整然とした異を唱えた。
しかしその後、長政は勢い余って
「総じて殿下が近頃あやしい言動をなされるのは、古狐などと御心が入れ替わっているのでしょう。…(中略)…万民も泰平の世を過ごそうとしているのに、罪もない朝鮮を征討なさり、広く国財を費やし人民を苦しめるとは何事ですか。…(中略)…ここまで思慮のない殿下ではないはずです。どうしてこのようになられてしまったのか。ゆえに古狐が殿下に入れ替わっているのではないかと申し上げました」
とまで言ってしまった。
いかに秀吉と付き合いが長く相婿だったとしても、秀吉は天下人で長政はその家臣である。しかも親族が集る場ならまだしも、れっきとした政治の中枢の場である。
秀次が刀に手をかけ、激怒した秀吉も刀を抜いた為、この場の空気は凍りついた。
すると長政は平然と
「私の首など何十回はねても天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵で困窮の極みとなり、親・兄弟・夫・子を失い嘆き悲しむ声に満ちています。ゆえに御自らの御渡海はお辞め下さい」
と続けたのだ。
これほどの諫言を言った長政は、周囲から「去れ!」と責められたが、一向に席を立たずにいた。
結局、家康が人に命じて長政を隣の間に連れて行き、何とかその場を収めたという。
家康との関係
この一件で秀吉に物申したのは、徳川家康と浅野長政だったが、実はこの2人は日頃から囲碁を打つ間柄だった。
時として長政は家康に対して無礼な挙動を取ることもあったが、家康は「これも一興」として微笑ましく思い、長政をとても気に入っていたという。
しかし、秀吉の死後に2人の関係は一度変化を迎える。
慶長4年(1599年)家康暗殺計画が露見し、長政は前田利長らと共にこれに巻き込まれ、家督を嫡男・幸長に譲り蟄居となった。
しかし、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて長政は家康につき、秀忠軍に従軍して中山道を進んだ。息子・浅野幸長は東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦でも活躍した。
幸長は、この功績で紀伊国和歌山37万石に加増転封となった。
長政は江戸幕府成立後に家康に近侍し、慶長11年(1606年)幸長とは別に家康から隠居料として常陸国真壁5万石を与えられた。
家康との囲碁仲間関係は、長政が亡くなる慶長16年(1611年)まで続いたという。
おわりに
囲碁仲間だった2人は、何やかんやと秀吉の愚痴を言い合っていたかもしれない。
囲碁を打ちながら「いやぁ~ちょっと言い過ぎましたかな?家康殿が止めてくれなければ死んでいたかも」などと話す長政の姿は、想像に難くない。
きたあ-昨日の10・8の大河見ましたか皆さん
浅野長政がこのrappotsさんの記事通りやりました。
rappotsさんすごいわ