「織田信長=苛烈で怖い人」というイメージを抱く人は多いだろう。
それは信長が行った『比叡山焼き討ち』や『伊勢長島焼き討ち』に大きな要因があると考えられる。
今回は、信長が「神をも恐れぬ男」と呼ばれるようになった『比叡山焼き討ち』について掘り下げていきたい。
『比叡山焼き討ち』はなぜ起きた?
信長による『比叡山焼き討ち』は、なぜ起きてしまったのか?
理由としては2つ考えられる。
・敵対する浅井・朝倉勢をかくまった上に、戦国大名に匹敵する軍事力を持っていた。
・比叡山の動きにより、結果的に多くの親族衆を失った。
当時の比叡山の僧侶たちは世俗化し腐敗しており、武装化した僧兵が多くいた。そして戦国大名並みの軍事力を持ち、政治にも介入するなど大きな影響力を持っていたのである。
さらに敵対していた浅井・朝倉勢を匿い、信長が再三にわたって警告するも無視し続けたのである。
また、信長は弟の信勝が謀反してもほとんどお咎めなしで許し、やむを得ず殺した後も、信勝の息子の信澄を一門待遇にするなど、当時では考えられないほど親族に甘い面があった。
しかし、信長の親族が比叡山のせいで間接的に多く死んでいることから、感情的にも許せない相手であったことは想像に難くない。
『比叡山焼き討ち』が発生するまでの時系列
『比叡山焼き討ち』は『伊勢長島焼き討ち』と連動している。
1571年に『比叡山焼き討ち』、その3年後の1574年に『伊勢長島焼き討ち』と続いている。
時系列でわかりやすく流れを解説しよう。
① 1568年、信長が足利義昭を奉じて上洛し、京都から三好三人衆を追い出す。
② 追放された三好三人衆は報復のために動き出し、信長と本格的に敵対する。
③ 1570年4月、浅井長政の裏切りにより、金ヶ崎の戦いで窮地となる。6月、浅井・朝倉連合軍と姉川の戦いが起こる。
④ 浅井・朝倉連合軍との戦いのために、畿内から織田軍主力が撤収。それをチャンスと捉えた三好三人衆が挙兵する。
⑤ 1570年8月、三好三人衆を潰すために、信長は松永久秀・久通父子と合流して対峙する(野田城・福島城の戦い)
⑥ 1570年9月6日、中立だったはずの石山本願寺の顕如が、長島にいる本願寺門徒衆や浅井長政、朝倉義景に檄文を送り、反信長体制を築く ←ポイント1
⑦ 浅井・朝倉連合軍は軍勢を引き連れて南下、その通り道にあった佐山城主・森可成や、援軍として駆けつけた信長の弟・信治は城を守りきれずに討ち死にする(宇佐山城の戦い)←ポイント2
⑧ 信長が三好三人衆や石山本願寺との戦いを切り上げ、京に入るタイミングで、浅井・朝倉連合軍は比叡山延暦寺に入り、時間稼ぎを開始する。
⑨ 信長は比叡山を包囲し「浅井・朝倉連合軍の退去」を命じたが、比叡山は受け入れずに我慢比べとなる。織田軍の本隊は1570年9月下旬から10月下旬まで約一ヶ月間、釘付けにされる。
⑩ 我慢比べをしている間に、あちこちで反織田勢力が出没しはじめる。さらに、長島の本願寺門徒衆の一揆によって信長の弟・信興が守る小木江城が奪取され、信興は80人余りの家臣と共に自害に追いやられる。近隣の桑名城にいた滝川一益も敗走する。 ←ポイント3
⑪ 織田軍本隊が比叡山に釘付けにされていることで救援にも行けず、不利になっていることを悟った信長は、朝廷と足利義昭を動かして講和する。
⑫ 弟・信興の敵討ちの意味を込めて、1571年5月に第一次長島侵攻を実行するが、予想をはるかに上回る防衛力で攻略しきれず、氏家卜全とその家臣数名が討ち死するなど、敗戦となる。
⑬ 1571年5月、浅井軍が一向一揆と組んで姉川に出軍し、織田軍の堀秀村が守る鎌刃城を攻撃したが、木下秀吉が援軍に駆けつけ城を守り切る。その勢いに乗って信長は長島侵攻を一度諦めて、伊勢で長島一向一揆に参加した村々を焼き払う。さらに浅井長政の居城である小谷城などの敵対勢力拠点を潰していく。
⑭ 1571年9月、ついに信長は、浅井・朝倉連合軍の一時的な居城となっていた『比叡山焼き討ち』を行う。『信長公記』では数千人が亡くなったとされている。
⑮ 1573年9月、第二次長島侵攻、1574年7月には第三次長島侵攻を行うが、ここでも手痛い反撃を受け、信長の異母兄・信広や、弟・秀成、従兄弟・信成、叔父・信次など、多くの織田一族が戦死した。←ポイント4
これに怒った信長は、最終的に徹底した『伊勢長島焼き討ち』を行った。この焼き討ちによって城中の2万の男女が焼け死んだ。
こういった流れだ。
『比叡山焼き討ち』と『伊勢長島焼き討ち』はポイント1にあるように、石山本願寺顕如の檄文によって織田包囲網が形成されたところから始まっている。
その結果、ポイント2・3・4にあるように、信長は大切な親族衆を失うことになる。
冒頭で記載したように、信長は親族には甘い面があり、その反面、亡くなれば激高したことだろう。
全ての原因が比叡山にあるとは言わないが、浅井・朝倉軍の比叡山立てこもりが無ければ、ここまで被害は広がらなかったはずである。
この比叡山での時間稼ぎによって織田軍は釘付けにされ、結果的にポイント3にある長島一向一揆の救援に間に合わず、弟・信興は自害することになったのだ。
比叡山焼き討ちの死者は、『信長公記』では数千人、ルイス・フロイスの書簡では約1,500人、『言継卿記』では3,000~4,000人となっている。
最後に
昭和三十一年に行われた発掘調査では、焼き討ちを裏付ける量の燃えた木材や、人骨が出土していないとの報告もある。
とはいえ、史料価値が高いとされる『信長公記』やフロイスの『日本史』などが、まるきり見当違いな記述をするとも考えにくく、実際には比叡山の麓の坂本の町で、焼き討ちや処刑が行われたという可能性もある。
いずれにせよ信長は焼き討ちに至るまでに、大きすぎる犠牲を払っていたのだ。
参考 : 『信長公記』、ルイス・フロイス『日本史』、『言継卿記』他
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