安土桃山時代

織田信長の悪行とも言われる『伊勢長島焼き討ち』は、なぜ起きたのか?

伊勢長島焼き討ち
織田信長=苛烈で怖い人】というイメージを抱く人は多い。

その理由は『比叡山焼き討ち』や『伊勢長島焼き討ち』にあるだろう。

今回は、2万人を焼いたと言われる『伊勢長島焼き討ち』が、なぜ起きてしまったのかについて掘り下げていきたい。

伊勢長島焼き討ち

画像 : 錦絵『太平記長嶋合戦』 public domain

『伊勢長島焼き討ち』が発生するまでの時系列

『伊勢長島焼き討ち』に至るまでを知るには、ちょっとした歴史探訪が必要になる。

『伊勢長島焼き討ち』が発生したのは1574年だが、それまで何度も長島と信長は激突しているのだ。

少しでもわかりやすくするために、時系列順に解説しよう。


① 1568年、信長が足利義昭を奉じて上洛し、京都から三好三人衆を追い出す。

② 追放された三好三人衆は報復のために動き出し、信長と本格的に敵対する。

③ 1570年4月、浅井長政の裏切りにより、金ヶ崎の戦いで窮地に陥る。6月、浅井・朝倉連合軍と姉川の戦いが起こる。

④ 浅井・朝倉連合軍との戦いのために、畿内から織田軍主力が撤収。それを好機と捉えた三好三人衆が挙兵する。

⑤ 1570年8月、三好三人衆を潰すために、信長は松永久秀・久通父子と合流して対峙する(野田城・福島城の戦い)

⑥ 1570年9月6日、中立だったはずの石山本願寺顕如が、長島にいる本願寺門徒衆や浅井長政朝倉義景に檄文を送り、反信長体制を築く ポイント1

画像 : 顕如の檄文 public domain

⑦その結果、三好三人衆以外に浅井・朝倉連合軍が呼応し出陣、さらには長島の本願寺門徒衆が呼応し出陣する。

⑧ 浅井・朝倉連合軍は軍勢を引き連れて南下、その通り道にあった佐山城主・森可成や、援軍として駆けつけた信長の弟・信治は城を守りきれずに討ち死にする(宇佐山城の戦い)

⑨ 信長が三好三人衆や石山本願寺との戦いを切り上げ、京に入るタイミングで、浅井・朝倉連合軍は比叡山延暦寺に入り、時間稼ぎを開始する。

⑩ 信長は比叡山を包囲し「浅井・朝倉連合軍の退去」を命じたが、比叡山は受け入れずに我慢比べとなる。織田軍の本隊は1570年9月下旬から10月下旬まで約一ヶ月間、釘付けにされる。

⑪ 我慢比べをしている間に、あちこちで反織田勢力が出没しはじめる。さらに、長島の本願寺門徒衆の一揆によって信長の弟・信興が守る小木江城が奪取され、信興は80人余りの家臣と共に自害に追いやられる。近隣の桑名城にいた滝川一益も敗走する。 ポイント2

⑫ 織田軍本隊が比叡山に釘付けにされていることで救援にも行けず、不利になっていることを悟った信長は、朝廷と足利義昭を動かして講和する。

⑬ 弟・信興の敵討ちの意味を込めて、1571年5月に第一次長島侵攻を実行するが、予想をはるかに上回る防衛力で攻略しきれず、氏家卜全とその家臣数名が討ち死するなど、敗戦となる。

⑭ 1571年5月、浅井軍が一向一揆と組んで姉川に出軍し、織田軍の堀秀村が守る鎌刃城を攻撃したが、木下秀吉が援軍に駆けつけ城を守り切る。その勢いに乗って信長は長島侵攻を一度諦めて、伊勢で長島一向一揆に参加した村々を焼き払う。さらに浅井長政の居城である小谷城などの敵対勢力拠点を潰していく。

⑮ 1571年9月、ついに信長は、浅井・朝倉連合軍の一時的な居城となっていた『比叡山焼き討ち』を行う。『信長公記』では数千人が亡くなったとされている。

⑯ 1573年8月、浅井長政・朝倉義景を滅亡させたことで手が空いた信長は、9月に第二次長島侵攻を実行するが、大湊での船の調達ができなかったことで長島への直接攻撃ができず、北伊勢のみの平定で撤退することになる。その最中に奇襲されて林通政が討ち取られる。

⑰ 第二次長島侵攻が失敗した背景には、長島に肩入れをする会合衆の助力があったことがわかった信長は激怒し、湊の取り締まりを本格的に行う。

⑱ 1574年7月には第三次長島侵攻を行うが、ここでも手痛い反撃を受け、信長の異母兄・信広や、弟・秀成、従兄弟・信成、叔父・信次など、多くの織田一族が戦死した。ポイント3

⑲ それに激怒した信長は、幾重にも柵で囲んで火攻めを行い、『伊勢長島焼き討ち』を行う。この焼き討ちによって城中の2万の男女が焼け死んだ。


このように『伊勢長島焼き討ち』に至るまで、多くの経緯がある。
一部の創作で描かれるように、いきなり長島の戦いで全てを燃やし尽くすといった立ち回りはしていない。

ポイント1で、石山本願寺が敵対した理由だが、1570年に信長が石山本願寺の明け渡しを要求したことが大きいと言われている。
明け渡しはできないと判断した顕如は各地に檄文を送り、完全に敵対することになってしまった。

さらにポイント2で、完全に長島とは敵対し、ポイント3では多くの親族衆を失い、ただ滅ぼすのではなく「焼き討ちする対象」になってしまったのだ。

『伊勢長島焼き討ち』に至った過程には信長個人の怒りもあっただろうが、何年も敵対したことで一向一揆の恐ろしさを理解してしまったというのも大きいだろう。

農民たちが本願寺門徒衆となることで、大名にも勝てる存在となってしまったのだ。戦国の覇王・信長でさえも脅威だったのである。

参考 : 『信長公記』、ルイス・フロイス『日本史』

 

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

    • 名無しさん
    • 2023年 11月 05日 8:14am

    >浅井長政の裏切りにより、金ヶ崎の戦いで窮地となる。
    窮地は陥ったり立たされたりする物で、なる物ではありません。

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      • 草の実堂編集部
      • 2023年 11月 05日 11:10pm

      ご指摘ありがとうございます。修正させていただきました☺

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