豊臣秀吉と秀長。戦国の頂点へ駆け上がった兄と、その陰で政権を支え続けた弟。
その2人を結びつけていたのが、母・なか、のちの大政所(おおまんどころ)でした。
史書に名を残すのは秀吉の華やかな出世と秀長の堅実な働きですが、その背後には、夫を失い、貧しさの中で子を育て上げた1人の母の姿があります。
戦乱のただ中で、4人の子どもを抱えて生き抜いた彼女の人生は、豊臣兄弟の物語と切り離して語ることができません。
天下人の母として祭り上げられる以前、大政所は、戦国の尾張に生きた1人の女性でした。
今回は、彼女がどのような人生を歩んだのかを見ていきます。
なか(大政所)の生い立ち

画像 : 大徳寺蔵「大政所像」public domain
なか(のちの大政所)は、永正13年(1516年)頃の生まれと考えられていますが、その出生地や家柄を直接伝える同時代の史料は残っていません。
尾張国愛知郡御器所村(現在の名古屋市昭和区)の出身とする説や、美濃の鍛冶職人関氏の娘とする伝承がありますが、いずれも後世の記録によるもので、確定できるものではありません。
若い頃のなかは、尾張中村に住む織田家の被官、木下弥右衛門に嫁ぎました。
2人の間には長女・とも(のちの瑞龍院日秀)と長男・日吉丸(のちの秀吉)が生まれ、その後、次男・小一郎(のちの秀長)、次女・朝日も誕生しています。
ところが天文12年(1543年)正月、弥右衛門は病没します。
瑞龍寺に伝わる『瑞龍寺差出』には、ともの父にあたる人物「妙雲院殿栄本」がこの年の正月2日に亡くなったことが記されており、これが弥右衛門の法名と考えられています。
なかは4人の幼い子を抱えた未亡人となり、生活は一層厳しいものとなりました。
江戸時代に成立した、秀吉の生涯を伝える『太閤素生記』は、なかがその後、織田信秀の同朋衆であった竹阿弥と再婚し、秀長と朝日を産んだと記します。
しかし、秀長の生年は天文9年(1540年)、朝日は天文12年(1543年)とされており、弥右衛門の没年と重なるため、この説は年代的に成り立ちません。
現在の研究では、秀吉と秀長、そして朝日は同じ父・弥右衛門の子と見るのが有力で、竹阿弥という人物は弥右衛門の出家後の姿か、後世に生じた人物混同である可能性が高いと考えられています。
豊臣兄弟の子供時代

画像 : 豊臣秀吉と秀長 public domain
秀吉と秀長の幼少期の生活は、後の「天下人の兄弟」からは想像しにくいほど不安定なものでした。
父を早くに失い、母なかのもとで貧しい暮らしを送る中、兄弟はそれぞれ異なる道を歩み始めます。
兄の秀吉は若くして家を出て、今川家臣・松下之綱のもとに仕えました。
駿河での奉公生活は決して順調ではなく、失敗や挫折も経験したと伝えられていますが、こうした放浪と奉公の時代が、のちに人の懐に飛び込む才覚や強烈な上昇志向を育てたともいえるでしょう。
その後、秀吉は尾張に戻って織田信長に仕え、ここから一気に武士としての階段を駆け上がっていきます。
一方の秀長は、しばらく母のそばにとどまり、家族を支える役割を担っていたと考えられています。
派手な活躍こそありませんが、堅実に周囲と折り合いをつけながら生きる気質は、この頃に形づくられたものだったのかもしれません。
やがて兄・秀吉が信長のもとで頭角を現すと、秀長もこれに従って武士となり、以後は生涯にわたって兄を支える存在となります。
成長した秀長は、温厚で理知的な調整役として知られ、短気で強引な面もあった秀吉とは好対照の人物でした。
豊臣政権の内外で衝突が起きたとき、間に入って事態を収めたのが秀長であった例は少なくありません。
後世に「秀長が長生きしていれば豊臣家はもっと安定した」と語られるのは、それだけ彼の存在が大きかったということでしょう。
母として、そして豊臣政権の「要石」として

画像 : 大政所の生誕地と伝わる御所屋敷跡(名古屋市昭和区)Bariston CC BY-SA 4.0
夫を失い、貧しい農村で子どもを育てていたなかは、秀吉の出世とともに一気に歴史の表舞台へ引き上げられます。
しかし彼女は、単に「関白の母」として遇された存在ではありませんでした。
天正13年(1585年)、秀吉が関白に就任すると、なかは「大政所」と称され、豊臣家の母として公的に位置づけられます。
これは単なる敬称ではなく、秀吉が新たに築こうとした「豊臣家」という家格と権威を、母の存在を通して可視化し、朝廷や武家社会に示すための政治的な意味合いを帯びたものでした。
秀吉は血統的な正当性を欠く「下層出身の関白」であり、その弱点を補うため、母を「朝廷にゆかりのある女性」として演出する必要があったのです。
秀吉の側近であった大村由己が記した『関白任官記』には、大政所が若い頃に宮中に仕えていたという話が盛り込まれており、母の由緒を高めることで権威を補おうとした意図がうかがえます。
また、大政所は形式的な存在にとどまりませんでした。彼女の存在は外交や政略にも組み込まれていきます。

画像:東照大権現像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)public domain
天正14年(1586年)、秀吉と徳川家康の関係が微妙な緊張状態にあった時期、大政所は家康のもとへ下向します。
これは単なる母の里帰りではなく、秀吉が家康に和睦と服属を確実にさせるための、いわば政治的な「保証人」の役割でした。
大政所が岡崎へ赴き、さらに妹の朝日姫が家康に嫁ぐことで、徳川家は事実上、豊臣政権の外戚となります。
戦国の世で、母と妹が差し出されるというのは、それだけ重い決断でした。
大政所が、ただ静かに余生を送る存在ではなく、豊臣政権の動きそのものに組み込まれていたことが、ここからも見えてきます。
大政所の晩年と死
大政所はこの岡崎下向の後、京都や大坂を行き来しながら晩年を過ごしました。
天正16年(1588年)頃から病がちとなり、秀吉はその回復を強く願います。
この時期、秀吉は大徳寺の境内に「大政所位牌所」を設け、生前から母のための礼拝施設と木像を用意させています。
さらに天正19年(1591年)には、大政所の菩提寺として金鳳山天瑞寺の建立が始められました。
これもまた、母の死を待って建てられたものではなく、生前から「豊臣家の祖廟」を準備する政治的意味を持った事業でした。

画像 : 大政所の納骨堂となった旧天瑞寺寿塔覆堂 Wmpearl CC0
大政所は文禄元年(1592年)に没します。享年は76または77と伝えられています。
『多聞院日記』などの同時代の記録には、秀吉が母の死に強い衝撃を受けた様子が記されており、その喪失が彼にとってきわめて大きな出来事であったことがうかがえます。
秀吉は母の死後、天瑞寺を本格的に整備し、肖像や位牌を安置して盛大な追善供養を行いました。
大政所はこうして、単なる一人の母を超えて、「豊臣家の祖」として祭祀される存在となったのです。
終わりに
秀吉と秀長という対照的な兄弟が生まれ、育ち、やがて天下を動かす存在になった背後には、なかという母の存在がありました。
貧困の中で4人の子を育て、のちには政権の象徴として政治の中枢に組み込まれた彼女の人生は、戦国社会における女性のあり方を大きく超えたものでした。
大政所は、ただ「天下人の母」だったのではありません。豊臣政権の成立と安定を陰で支え続けた、もう一人の基礎石であったと言えるでしょう。
参考 : 『太閤素生記』『多聞院日記』『関白任官記』『大政所と北政所』戎光祥出版 他
文 / 草の実堂編集部























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