安土桃山時代

天下統一後の豊臣秀吉の政策

前回の記事 天下統一に至るまでの豊臣秀吉

はじめに

前回は、天下統一に至るまで、木下藤吉郎から関白豊臣秀吉になるまでの過程を取り上げた。

今回は天下統一後の豊臣秀吉による政策を取り上げたい。

具体的には、百姓時代の経験を生かした政策と朝鮮出兵の2つのテーマを中心に取り上げたい。

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秀吉の百姓時代の経験を生かした政策

(1)刀狩

秀吉が信長に仕えていた頃、信長は今川義元の寄親・寄子に見られる統制された集団戦法を手本に組織改革を行っていた。

参考 今川義元の領国経営と組織的戦い

秀吉も百姓として戦に加わり、桶狭間の戦いまで統制のとれた組織による集団戦法を何度か見ていたと思われる。

秀吉が仕えた織田信長については、百姓を戦に動員していたが、繁忙期に百姓を戦に使えないという弱点を補うために武士の次男・三男以下の若者も戦に登用していた。

当時活躍した若者の中には前田利家滝川一益などがいる。秀吉は信長の少数精鋭の働きを見て、出世している姿を見ていたと思われる。

秀吉は天下統一事業を完成させる前、百姓は農作業だけでなく、戦に貢献すれば領主から恩賞も受け取っていた。すなわち、本業の農業だけでなく、強制とか任意を問わず、副業として戦に加わっていたことにもなる。当時の百姓は領主から戦の命令が出ても対応できるように刀・弓・槍などの武具を持っていて、武具の手入れを行っていたと言われている。

秀吉は天下統一事業を完成させると、本業の農業に専念させるため、刀・弓・槍などの武具を取り上げる刀狩を行った。

刀狩の狙いとして、農民が一揆をおこすのを防ぐことも挙げられる。没収した武具については方広寺の鐘に使うと宣伝し、武器を供出すればあの世まで救われると百姓に広めたと伝えられている。

(2)太閤検地

太閤検地の前にも検地が行われていた。秀吉が天下統一する前の戦国時代の検地については差出検地と呼ばれ、領主は領内の武士・寺社・村から土地の台帳を提出させることで戦国大名は土地の生産量を把握したと言われている。

当時の検地方法は台帳を差し出すだけで、過少申告するものが少なくなかったと言われている。また、検地に使われていた枡について、全国規模で大きさが統一されておらず、生産高を正確に把握することが難しかったと言われている。

秀吉は天下統一事業を完成させると、差出検地の弱点を克服して、正確に土地の生産高を把握するために検地の方法を改めたと言われている。

まず、枡の大きさを統一することから始めた。次に、差出検地は自己申告に基づくもので、領主が申告した内容を確かめることはほとんどしなかったため、過少申告が少なくなかったと言われているが、過少申告を防ぐために役人が測量をしたと言われている。

次に、秀吉が太閤検地を行った狙いとして、耕作者と年貢を納める人が同じ人であることが挙げられる。太閤検地以前、平安時代の荘園や室町時代から力を付けた惣村が耕作者の年貢をいったん徴収し、その後荘園や惣村が領主に年貢を納めていたので、土地の権利関係が複雑になっていた。

この複雑な関係を直すために太閤検地を行ったと言われている。また、太閤検地によって、平安時代から続く荘園制度が終ったと言われている。

秀吉の朝鮮出兵

秀吉の朝鮮出兵
文禄の役『釜山鎮殉節図』
豊臣秀吉の天下統一事業後に2度の朝鮮出兵をしたことで、豊臣政権が衰退したことは知られている。ここでは、朝鮮出兵の概要と秀吉の朝鮮出兵の動機について取り上げたい。

(1)2度の朝鮮出兵

1度目は1591年の文禄の役で、最初は秀吉軍が優勢で戦いが進められた。

小西行長加藤清正らの活躍により、当時の漢城(ソウル)平壌まで兵を進めた。朝鮮半島での戦いを優位に進めていたが、朝鮮軍の水軍と日本の水軍の戦い方が異なっていたことや明軍の援軍により次第に劣勢になり1592年に文禄の役は終わった。

1度目の文禄の役の講和がこじれたことにより、1597年に2度目の朝鮮出兵である慶長の役が始まった。慶長の役の開始直後から秀吉軍は劣勢が続いていたと言われている。2度目の慶長の役は秀吉の死去に伴い、1598年に朝鮮半島から兵を引くことになり、戦いが終わった。

(2)朝鮮出兵の動機

司馬遼太郎の著書によれば、秀吉は信長に中国・九州地方を平定してから朝鮮へ押し渡り、朝鮮を頂戴したいと言ったことがあるようだが、史料などにこの秀吉の発言に関する記録はない。司馬遼太郎のフィクションで、信長の心をつかむために冗談で言った可能性はあるが、秀吉が本当に天下統一事業を完成させると朝鮮を狙っていた可能性があると考えられる。

 

おわりに

今回は豊臣秀吉の天下統一後の政策について、百姓時代の経験を生かした政策として刀狩と太閤検地、朝鮮出兵について取り上げた。

秀吉が死去してから豊臣政権は大坂の役で滅亡したことは言うまでもない。秀吉の百姓時代の経験を生かした政策については、関ケ原の戦いの後に江戸に幕府を開いた徳川家康の政権に引き継がれた。その後、江戸幕府の幕藩体制における百姓の統制の基礎となったと言われている。

 


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